2008/03/29

ヘイフンテラスの謎と不思議の15

 そうです、なんだかいつの間にか15回目になりました。ついつい横道にそれちゃうもんで。
 というわけで、今回も黒服の女史、白服のパシリ君はお休みです!

 いつのことだったか、12チャンネルの日曜日夜の「浅草橋ヤング洋品店」で、中華大戦争、だったと思いますが、中華料理人の対決というのがありました。
 そん時に周さんと譚さんが対決。
 記憶にあるのはキャベツの千切りだか細切りだかの早切り競争。勝利を納めたのは周さんでした。
 ところが、周さんの包丁さばき、豪快でワイルド。それだけに、キャベツの細切りの幅が揃わず、めちゃくちゃ乱暴。一方の譚さん、きっちり丹念にキャベツを刻んで、幅も一定。
 というあたりからも、二人の性格、料理への姿勢、取り組みの違いを物語っているように思ったことがあります。

 譚さんに初めて出会ったのは80年代の半ば以後のこと。それまで「南園」に通ってましたが、譚さんが副料理長だったことなどつゆぞ知りませんでした。それが胡麻擂り屋(って、胡麻擂りの機械を扱う)石川さんに「南園」で食事会があるから、と誘われたのがきっかけです。
 その時、フレンチの石鍋さんも同席。ということから知己を得ました。
 そして、譚さんにも出会い、少し話を伺った次第。生真面目そうな方、というのが初対面の印象でした。

 その後、譚さんは飯田橋のホテル・エドモンドの「廣州」の総料理長に。
 「廣州」には譚さんの料理への興味もあってしばしば出かけました。
 料理の色彩、盛り付けの美しさ、繊細さ。だし作りの丁寧さ、穏やかで優しく口当たの良い調理、味付けが印象的でした。律儀で誠実な人柄がうかがえたものです。

 おまけに、日本式の伝統的な広東料理だけでなく、香港スタイルを積極的に取り入れ、郷土料理なども「南園」、それに周さんが総料理長を務めていた頃の「聘珍樓」や、独立して開店した「璃宮」よりも、その数が多かった覚えがあります。「煲仔」の類などもありました。

 その後、譚さん、周さんの赤阪の「璃宮」後を次ぎ、店名も「赤阪璃宮」と改め、オーナー&シェフとして采配を。
 周さんの「璃宮」から譚さんの「赤阪璃宮」になって、まず変わったのは、ホテル式のサービスを取り入れたこと。とはいうものの、当初はいささかぎこちなく、街中の店にしてはスタイリッシュ、というか勿体ぶりすぎ、だった印象で。
 そして、料理に関しては香港色がぐっと濃くなった。ふかひれなどの乾貨素材を主体にした料理は、香港スタイルを踏襲し、出来る限りそれを再現。

 そういえば、福臨門が東京に進出した前後、中国飯店六本木支店がそれに対抗してかそれまで看板だった「紅焼魚翅」、ふかひれの醬油煮込みだけでなく、澄まし仕立ての「清湯魚翅」を急遽メニューに追加し、提供。ところが、付け焼刃は否めなくって散々の出来栄え、なんてことがありました。

 それに比べてば、「赤阪璃宮」の「紅焼魚翅」。ふかひれの醬油煮込みに、炒めもやし、金華ハムの細切りを用意。もっとも、別皿に添えるのではなく、テーブルに運ばれてきた時には、すでに皿の中、というのは面喰らいましたが、香港スタイルを踏襲という精神と姿勢に納得し、応援のエールを送りたくなったものです。

 それ以外にも香港の広東料理店ではごく当たり前な「煲仔」類などの種類、バラエティーも実に豊富。
 もっとも「煲仔」類、なんでだかだし汁が多かったような。
 そういえば、フード・ライターの森脇さんが譚さんに依頼し実現した会食に参加する機会を得た時には、日本ではめったに得られない素材を使った料理にも遭遇。

 中でも印象的だったのは焼き物の類。ハトの丸揚げの「脆皮焼乳鴿」。
 その「脆皮焼乳鴿」、私の香港体験に照らし合わせれば、沙田の駅前に並ぶ料理店での「焼乳鴿」や、サンミゲル・ビールの工場がある深井の料理店の「焼鴨」の味にも似ていて、少し濃い目の味付けで、しっかりの焼き加減。なんといっても香港ローカル、庶民的で大衆的な親しみのある味。昔ながらの老舗や大衆的な店で出会える懐かしい味、風味のものでした。

 なんと譚さん、「赤阪璃宮」を始めるにあたって、焼き物の釜を設置するだけでなく、焼き物専門の職人を香港から招聘。とても頑固な料理人で、焼いた物はそのまま食べてもらうのが一番、ってことから「ほら、香港じゃ、焼いた鳩にレモン汁と塩を添えたりするでしょ?それが、だめだっていうの。味がはしっかり付いてるからって!」と、譚さんも苦笑い。

 譚さんが香港の広東料理を積極的に取り入れ、そればかりか焼き物の職人を招聘したそもそものきっかけは、譚さんが「南園」に呼ばれた頃の昔に遡るそうです。 その話、dancyuで譚さんに取材した時にも聞きましたが、ネットでの譚さんのインタビューにあります。

 「南園」に呼ばれた譚さん。束ねることになった部下は全員広東省の出身。
 ところが華僑の譚さんが話す広東語ではコミュニケーションがとれない。そんなことから語学学校に通って広東語を改めて勉強、なんてこともあったそうです。

 それより、香港からやってきた料理人の素材の扱い、素材の捉え方、調理技術は、それまで譚さんが学び、やってきたものとはまったく違ったのに衝撃を受け、以来、譚さん、香港の料理人に教えを請い、「板」も「鍋」も、すべて一からやり直し。なんて話、dncyuの依頼で譚さんを取材した時に知りました。

 「ワ!譚さんてすげ!」と、年長の方に向かって失礼ですけど、正直そう思いました。
 料理人として年季を積み、一応の歳になっていながら、頭の中を切り替えて、料理人として再スタート。その姿勢、意気込み、意欲に感心しました。

 そんな譚さんだけに香港の広東料理への興味、関心は、並々ならぬものがあったようです。
 周さんが「新派広東」の華々しい一面に刺激され、自身の料理に取り込んでいったとは対照的に、譚さんは香港の伝統的な広東料理、宴会料理だけでなく、旬の素材、日常的な素材を使った家郷菜、家常菜に注目。

 その成果、「廣州」ですでに片鱗を見せていましたが、ホテルの料理店、ということもあってか、いささかセーブ。
 しかし、オーナー&シェフになった「赤阪璃宮」ではそれを一気に開花。
 「え!こんな料理があるんだ!」と、日本ではなかなかおめにかかれない料理、「小菜」の類を、月替わりの料理長のお勧めのメニュー、コースの中に発見。
 譚さんにとっては念願のもの、だったのでしょう。

 ある時「赤阪璃宮」で出会った料理。トマトにひき肉の詰め物をした料理でした。
 「ね、譚さん、これ、「陸羽茶室」の雀の肉を詰めたやつがヒントでしょ?」と、尋ねると、
 「ふふ、そうそう、よく知ってるね!わかっちゃったか!」と、照れ笑い。
 
 そんな時、尋ねても返事をはぐらかしたり、「え!? 」と、一瞬、躊躇しながら「いや、あの私が~」なんて返事だったりすることが多いんですが、譚さんは、正直で率直。
「旨かったし、おもしろそうだから、中味の素材、置き換えて作れるじゃないかと思ってね」と、話してくれたもんです。 
 
 その時の譚さんの目の輝きが素晴らしかった。その率直さ、堂々とした譚さんから自信の程もうか換えました。
 美味しいものに出会えば、早速、それを取り入れ、自らの手で実現、という料理人は少なくない。ですが、その根っ子まで見つめ、取り入れる、と言うのはなかなか容易じゃない。その点、譚さん、しっかり根っ子のところを見据えていた様子。
 
 それに「こんな料理があるんだ」という新鮮な発見、驚き、素直な喜びも伝わってきました。
 美味しいものが好き、ってことだけでなく、探究心が旺盛で、意欲的。香港の広東料理、それも旬の素材を生かした家郷菜、家常菜に目を向けて、くまなくリサーチ。それもネタやアイデア探しってことじゃなく、その根源にあるものに目をやる譚さんの姿勢を物語ってるように思えました。

 とはいえ、香港で定着した伝統的な広東料理、宴会料理にも並ぶような高価で稀少な素材を使った家郷菜などを積極的に取り入れたものの、「赤阪璃宮」の開店当時、日本では素材の入手が難しかった。譚さん、店のスタッフを引き連れ、研修料理をかねて、素材調達のためにせっせと香港通い。

 香港で素材を調達し、広東地方の家郷菜、家常菜を用意しても、客には馴染みがなく、注文も少ない。
 「なにしろ、ふかひれの料理にしても、醬油煮込みの「紅焼」ぐらいしか馴染みがなくて、出ないから。それ以外だと、色々薦めてみても、なかなか受け入れてもらえないんだよ」と、当初は苦戦。
 店のサービスのスタッフ自体、その種の料理に馴染みがなかったことも一因だったようです。

 さて、画像。そうです「あのう、お客様~」と料理撮影禁止のヘイフンテラスですから。
 で、探し出したのは九龍城市「創發」のカウンターに並ぶ煲仔や惣菜の類。
 「創發」は潮州汕頭地方の料理が看板。香港の街中に多い香港化された潮州料理店とは違って、汕頭のローカルの味を紹介。
 広州、順徳の料理とは趣が違いますが、とりあえず、惣菜の類、煲仔の類はこんな感じ!
 というのをご紹介