さて、面白いのは周富徳さんと譚彦彬さんの二人。
私の知る限り、接した体験からすれば、二人の性格、人柄、料理に対する姿勢、取り組み方は対照的。 なんといっても二人が作る料理が、すべてを物語っているといえんるじゃないかと思います。
ちなみに周さんと譚さん、ともに生まれ育ちは横浜。子供の頃からの知り合いで、遊んばかりいたワルガキだったとか。
周さんは18歳の時、譚さんは横浜の中華街の店を経て、芝の「留園」を経て、周さんと同じく新橋の「中国飯店」に入店。同店には、現在の日本の広東料理界を支える梁 樹能(ホテルオークラ)、麥燦文(全日空ホテル)、潘継祖(プリンス・ホテル古希殿)、鄧 廣寛(リーガロイヤルホテル)といった錚々たる顔ぶれが揃っていたそうです。
その後、周さんは京王プラザホテルの南園へ。譚さんは名古屋、仙台のホテルを経て南園へ。周さんは南園の後、聘珍樓をへて独立し、赤阪に璃宮、さらには広東名菜富徳、周苑などを開店。
一方、譚さんは南園の後、廣州(ホテル・エドモンド)を経て、独立し周さんの「璃宮」の後に「赤阪璃宮」を開店。銀座の交詢社ビルに銀座支店を出店。赤阪店はTBS赤阪Bizタワーに移転したばかり
周さんとは荻昌弘さんに紹介されて知り合いました。
私も一時メンバーだった千葉の柏の知味斉の「知味の集い」で
「周さんの案内で香港旅行がありますが、どうです、ご一緒に」
と、荻さんに誘われ、そのツアーに参加したのがきっかけです。
KIHACHIの熊谷喜八さんもツアーに参加。ということで熊谷さんと知り合いました。
それからも周さんとは何回か香港に一緒する機会がありました。
以来「聘珍樓」、それに弟の富輝さんが後を継いだ横浜の「生香園」にも足を向けるようになりました。
荻さんに誘われての知味の会での香港旅行は、香港の有名店で豪華な内容の宴会料理や鯉魚門で海鮮料理を楽しむ、といった趣向のもの。
「知味の集い」のメンバーは食にうるさい方々がほとんど。
鯉魚門での海鮮料理はごく一般的なものでしたが、それ以外は「乞食鶏」があるなど、それぞれに凝った内容。
とはいえ、当時、血気盛ん(って食に関しては今でもそうか?)な私としては、昼の食事、飲茶なんかではつまらない。
そんなことからツアーの主宰者がいないのを見計らって、知り合ったばかりの案内の周さんに「ね、周さん、海鮮料理とか宴会料理もいいけど、フツーのお惣菜とか郷土料理も食べたいんだけど、だめかなあ」と、堪え性のない私はあつかましくも願い出ました。
いきなりの私のリクエストに、周さんはキョトン。
「ほら、蒸肉餅とか、煲仔とか~」 と言う私に、しばし沈黙のあと
「わかったわかった、小倉さんのリクエスト、やってみるよ」
てなことで、2日目の昼は家郷菜がずらり。
そのメニューの数々、荻さんはじめツアー仲間の方にとって初めての出会いだったようで大好評。
そんな風に、気安く頼みを聞き入れてくれ、安請け合いなんかじゃなく、すぐさま実行に移してくれる。周さんの人の良さを感じました。
それから、別の知り合いの集まりで、周さんと一緒に香港ツアーを、ということになりました。
周さん、我ら仲間だけでなく、雁屋哲さんが連載していた「美味しん坊」の読者香港招待の案内を依頼されていたそうで、「どうせなら一緒に!」という周さんの提案もあってジョイント・ツアーを実施。
その時、ちょっとしたハプニングが福臨門で勃発。
というのは、化学調味料を嫌う雁屋さん。それに対して、福臨門だって化学調味料を使ってるから、と周さん。
マジになった周さんの厳しい表情は忘れられません。
その時、いろいろあったコトの顛末は、当時、雁屋さんが新聞(東京新聞だったか、産経新聞だったか)で連載していたエッセイで紹介。
おもしろい話でしたが、その連載が本になった時、私のかみさんのコメントなども記されたその項目は、ばっさりカット。同著には掲載されずのままになりました。
なんでそうなったのか、今だそれは謎で、不明です。
それについて雁屋さんに尋ねたり、確かめもしませんでしたから。
で、その時、もうひとちょっとした出来事が。
鹹魚の味に魅せられた雁屋さん。なんとか鹹魚を入手したいと、周さんに頼み、一緒に鹹魚の買い付けにでかけました。そして周さんの案内で雁屋さんが入手した鹹魚、曹白でも馬友でもなく、もっぱらダシ取りに使うばかでっかいだけの鹹魚。雁屋さん、あの鹹魚、一体どうやって調理し、味わったんでしょうか。
当時、頻繁に香港に通っていた周さんは、香港の最新事情に精通し、香港の新潮流、新しい料理の動きを取材し「専門料理」の別冊号としてまとめて出版したこともあります。しかし、最新の動向には詳しかった周さんですが、地元の人の普段の食、郷土料理や家庭料理にはあまり関心はなかった様子。
もっとも周さん、「鹹魚」についてはご存知でした。
なんでも香港からやってきてた料理人が「鹹魚」を香港からせっとと取り寄せ、まかないのおかずにしていたこと。しかも取り寄せた「鹹魚」が、「まかないにするにはべらぼうな値段なんだよ」と苦笑い。
ともあれ、「鹹魚」はキッチンのまかないを横目でにらむだけだったとかで、種類などについて詳しくないって様子、話ぶりでした。
それからしばらくたったある日の朝、周さんからの電話で起こされました。
「あの、鹹魚のことなんだけど、曹白ってどんな魚かわかる、小倉さん?
それから、馬友もなんだけど」、と。
雑誌の取材で「鹹魚」を使ったものの、魚の種類については説明のしようがない。
私が周さんに「鹹魚」話をしたのを思いだし、連絡くれたってことでした。
周さん、今じゃそんなことすっかりお忘れでしょう。
その話からもわかる通り、周さん、素直で率直、しかも、屈託がない。
おまけに、香港で私の料理のリクエストにすぐさま応じてくれたように、思い立ったらすぐ実行、って性格なんだと思いました。
それに、先の雁屋さんの「鹹魚」話でも明らかなように「鹹魚」についてさほど関心もなく、詳しくはなかった周さんですが、いつのまにか「鹹魚」について熟知し、料理に活用。
なんてことから、思い立ったら即実行、意欲的な姿勢の持ち主だってこともわかりました。
周さんが「鹹魚」を塩鮭に置き換えた「鮭の炒飯」を考案し、TVなどで積極的に紹介しはじめたのは、それから間もなくのこと。
「鮭の炒飯」と共に、周さんの料理で必ず語られたのが「えびのオーロラ・ソース」。
中華風えびの特製マヨネーズあえです。
本人に確かめたわけではありませんが、そのアイデアの素になったのは香港で「新派広東」が流行した時期、「沙律醤」つまりはマヨーネーズを使った料理が各種登場。
それがヒント、きっかけになったんじゃ?なんて、私は思います。
私が周さんと知り合った時期、周さんは「聘珍樓」の総料理長。
香港に頻繁に出かけていた周さんは、先にもふれてきたように香港の食の最新の動向を日本に紹介。
「新派広東」にはいろいろ流派、系統がありましたが、ことに西洋や日本の料理素材を積極的に取り入れたいわばフュージョン的な料理に大いに刺激を受けた様子でした。
最新の流行、動向に目を見張らせる、っていうより、鼻が利くんでしょう。
目新しいものをは敏感に察知。積極的にそれを取り入れ、とりあえずは試し、自分なりの方法で新しい料理、方法を考案。 そんなどん欲な探究心の持ち主だってこと。それに、思い立ったらすぐさまそれを実行、という意欲的な人物なのだ、とわかりました。
そういえば、香港で定着しながら、日本ではまったく紹介されずにいた潮州料理に目をつけ、広尾でそれを看板にする「潮」を開店。むろん聘珍樓の経営者の判断があってのことでしょうが、周さんの臭覚の産物だったんじゃないでしょうか。 もっとも、残念なことには、しばらくして閉店。
そして周さん、聘珍樓から独立し、赤阪に「璃宮」を開店。
同店では、日本に定着した広東料理、香港スタイルの広東料理だけでなく、香港の最新流行を下敷きに周さんの考案した料理、それに広東地方の郷土料理、つまりは家郷菜、それに、周さんのおふくろの味たという家常菜が看板でした。
中でも楽しみにしたのは、日本で、東京で、滅多にありつけない広東地方の郷土料理が食べられる、ってこと。それに、周さんのおふくろの味だという家常菜。
期待したことはいうまでもありません。
ところが、広東地方の郷土料理、香港そのままじゃなく、周さん流にアレンジしたもの。
たとえば、煲仔の類。炒め煮込み、煎り焼き煮込み、じゃなくって、なんでだかだし汁たっぷりのだし汁煮込み。
「え!?、こんなのあり?」と、正直言って思ったものです。
もっとも、中には香港ではおめにかかれず、初体験の料理の数々も。
なんとそれこそは周さんのおふくろの味。周さんのお母さんが作ってくれたという料理をもとにした、ってことでした。
言ってしまえば、なんてことないお惣菜の類。優しくて、ほのぼのとしていて、心温まるような素朴な味。
あ、そうか、華僑の一家として育った周さんのお袋の味、なんだと納得。
しみじみとして味わい深いものがありました。
で、画像。
そうです「あのう、お客様~」ということで、料理撮影禁止のヘイフンテラス
ってことを貫き通さねば、男がすたる。
で、探し出したのはごく普通のお惣菜。
「肚尖鹹酸菜」。豚の胃の尖端と漬物の炒めもの。
マカオのリスボアホテルの中国料理店で食べたもの。
マカオですから、いなたくて、素朴な味。ですが、しっかり、風味がありました、てのはさすがです。
追記、思い出に残る周さんの麗しい話。
荻昌弘さんの1回忌だったか3回忌だったか、列席した周さんがお供えに持参したのが、自ら鍋を振ったという炒飯。
「(荻)先生に誉めてもらったし、先生のお気に入りだったから」とのことでした。