黒服の女史、白服のパシリ君のファンには申しわけないですが、ここでちょっと話はわき道に。
ことのついでに東京の広東料理店における香港の広東料理との関わりについて触れておくことにしたいと思います。
むろん、ヘイフンテラスの料理を理解、把握するのに無関係ではありません。
まず、70年、大阪で開かれた万博に香港の美心グループが出店。それをきっかけに、翌71年、香港で「翠園酒家」が誕生。鳳城(順徳/大良)と羊城(広州)の郷土料理を取り入れた料理、飲茶の点心のバラエティー、ことに洋風のサービスを取り入れたことで一躍話題となり、脚光を浴びて成功を収めました。香港の経済的な繁栄を背景にしたミドルクラス層の台頭、というのも成功を支えた大きな要因です。
結果、次々に支店を開店。その一環として東京に進出し、田村町に「翠園酒家」を開店。というのが香港の広東料理店の日本進出第1号、だったはず。
で、私が東京の中国料理店事情の調査、フィールドワーク、早い話、中国料理店の食べ歩きを本格的に始めたのは74年前後から。
当時の食のガイド、雑誌の中国料理の特集で取り上げられていた料理店を巡り歩き、評判の店、有名店はほぼクリアー。
広東料理に限らず、上海、北京、四川料理店なども含めてのことです。
頻繁に出かけたのは赤阪の「樓外樓」、六本木の「中国飯店別館」、西麻布の「北海園」といった所です。今、思い起こせば、広東料理店といえば「翠園酒家」ぐらいのもの。その数は少なかったような覚えがあります。
それから、香港に初めて旅行したのが79年。香港での広東料理体験が私の中国料理に対する認識、見解を一変させた、というのはこれまでにもお話してきた通り。
以来、東京での中国料理店巡り、行脚も少なからず変化。とくに広東料理に関しては、香港で体験した料理、味、風味を求め、捜し歩きました。
もっとも、香港そのままという店、料理を見つけ出すことは出来ませんでした。
しかし、香港に近い料理店、味は見つけられました。
たとえば、改めて存在を再認識した田村町の「翠園酒家」。渋谷の道玄坂の「井門」。味は今ひとつですが飲茶の点心が豊富に楽しめた新宿の東京大飯店。元は田村町(だそう)で、六本木に引っ越したという中国飯店。香港というより、広東省、広州の色彩が濃く、ひなびた素朴な味が楽しめた四谷の「嘉賓」などです。 もっとも、翠園、井門では面白い料理があったものの、それ以外の店は飲茶か麵、飯類などが中心。
もちろん、苦い思いだってしました。
人に薦められて出かけた有楽町の某店は、麺類はともかく料理が粗雑で乱暴だったのに閉口。
某有名ホテルの高級店では、伝え聞いていた評判から「あの、化学調味料、抜いてもらえますか?」と頼んだのにも関わらず、それでもどっさり。
顔は引きつる、胸の動悸は激しくなる。ぶるぶる震えながらテーブルの端を掴んで体を保つのがやっと。黒服の人も泡を食って、救急車を呼びましょうか、という事態に陥ったこともあります。
私、化学調味料を一定のレヴェルを超えて多量摂取すると、そんな状態になる。
というのはなかなか信じて貰えないんですが、事実です。
好き嫌いとか、自然食信望とか信条以前の問題で、あるレベルの摂取量を越えると、もうダメ。
まったく処置なし状態。
ま、化学調味料と塩分とは密接な関係にあって、塩分摂取過多もその要因じゃないか、とまあそれは私の勝手な判断です。
話を戻して、ともかく、東京の中国料理店行脚、それも、香港に近い味に出会える広東料理店、ということで見つけ出したのが、京王プラザの南園でした。
南園には旬の素材を使ったメニューがあり、私が探していた郷土料理的なもの、煲仔などもありました。メニューにはなかった料理、例えば青菜の蝦醬炒め、それに食べたい料理をメモに書いて黒服の人にキッチンに出来るかどうか尋ねて貰う、なんてのもよくやってました。
たいていの場合OKってことで、作って貰えたものです。さすがホテルのサービスは違うと感心。
以来、機会を見つけては「南園」へ。
ところが、ある時期から
「「蝦醬」は匂いが強く、周りのお客様にご迷惑にもなりますので、お作りできません」
と、突然の宣告。
以来、足が遠のくようになった次第。
楽しみを奪われりゃ、足が遠のくのも当然でしょう。」
その「南園」、周富徳、譚彦彬らを輩出、ということで有名です。
ネットで見つけましたが、06年、京王プラザホテル35周年記念イベントの一環として開催された南園出身の料理人による競演「中国料理「南園」巨匠たちの晩餐」のニュース資料によれば、他に現「龍天門」(ウェスティン・ホテル)総料理長の陳啓明、現「桃園」(ホテルEast21)総料理長の中川俊勝、現「南園」総料理長の李国超らの名もあります。
残念ながらその三方にはお目にかかったことがありません。それ以外に、当初「桃園」(ホテルEast21)の総料理長だった中島さんなどもいらっしゃったはず。
私が「南園」に通い始めたのは、周さんが「聘珍樓」に移り、入れ替わって譚さんがその後をついでからのことじゃないかと思います。
その「南園」、日本の中国料理人を輩出するとともに、開店当初から香港より料理人を招聘。ということが、香港の広東料理、しかも、郷土料理的な料理に出会える機会が多かった、という理由のようです。
どんな料理人が招聘されていたのか、興味あるところですが、その資料を持ち合わせてません。
唯一、覚えているのは、許さん。もうひとり、許さんの相方にあたり「板」を得意とすると聞いた料理人の方の存在。香港では許さんよりも、もうひとりの人の方が日本から香港に戻って後、現地の新聞などで見かけることが多かったのですが。
私が関心を持ったのは、そのふたりがミラマー・グループ系列の翠亨邨茶寮、同グループと関わりのある料理人、という話を耳にしていたからでした。後に許さんには周さんの紹介で出会ったことがあります。周さんに面白い店があるからと教えられ、手渡された紹介状を携えて会っただけのこと。
その許さんが組んでくれたコース、「家鴨の料理はOK?」と聞かれ「OK!」と返事しました。
一体、どんな郷土料理のスタイルの家鴨の料理なのか。
楽しみにしてたら、何のことはない、ぬあんと「北京ダック!」。
他の料理もごくありきたりな海鮮主体の料理。
しかも、べらぼうな値段だったりしたこともあって、今だ忘れられない。
そうです。これまでさんざん苦労してきたからこそ、今日のが私がある!
翠亨邨グループはミラマー・ホテルを拠点に74年に開店。広東地方の伝統的な郷土料理、家庭料理などの小菜を小皿(といっても小サイズ盛りの意味です)で提供。その内容、幅の広さ、豊富さで話題を呼び、以来、香港でブームになり、結果、グランド・メニュー以外に、季節の素材による小菜を記した小メニューも一般化、ということなったそうで。
一時の「南園」の料理長のお勧め、あるいは季節メニューには、その片鱗を伝える料理がありました。田村町の「翠園酒家」よりも香港の新しい潮流、流行を伝えていたものです。
とはいえ、それはごく一部。ですが、香港の味を求める私には貴重な存在でした。
その「翠園酒家」も、つい最近、閉店したそうで。
これを書くうち、確認のためネットで調べたところ、初めて知りました。 寂しい限りです。
で、画像。
やっぱり「あのう、お客様~」と料理撮影禁止の「ヘイフンテラス」ですので。
なんて言いながら、テーマに即した画像を見つけるのに必死。
というわけで見つけ出したのが「家常老少平安」。
豆腐に白身魚の切り身、もしくは、擂り身をあわせ、だしを張って蒸したもの。
「蒸水蛋」、鶏卵、家鴨の卵、家鴨の卵の塩漬けの鹹蛋などをまぜあわせて蒸した茶碗蒸し風の料理とともに、私の好みのおかずです。
こんなのが、東京の広東料理店で食べられるといいな、とずっと思い続けてますが、料理店で出会ったことがありません。