2007/01/31

閑話休題~マカオ・香港の旅(7)





                                         香港に到着して二日目の朝、滞在していたホテルのラウンジで朝食をとった。プライベートな旅行なら、東京での毎日と同じように昼近くまで寝ていて朝食はパス、といったことが多い。今回は取材旅行であり、早くに起きて朝食もしっかりとり、腹ごしらえしておかないと仕事が捗らない。

 もっとも、滞在したホテル、以前にもプライベートな旅行で何度か宿泊したことがあり、朝食が実に充実していたからいつもと違って早起きしていた。食べ物目当てなら、早起きもいとわないいやしんぼうの私である。

 で、以前は部屋で朝食をとったが、今回はラウンジのビュッフェにでかけた。

 その内容は充実していて、眠い目が一気にさめたほどだ。関心したのは飲茶の点心の良さで、どれも味、風味、申し分なく、香りが豊かだった。

 とりわけすばらしかったのが腸粉。米の粉を原料した幅広の生ビーフンである。

 もっとも、飲茶の点心だけで満足できるわけがなくて、パンケーキとハムやソーセージ類も一皿。パンケーキはメイプルシロップではなく、蜂蜜にした。ハムやソーセージ類は、日本のようにアミノ酸調味料が加えられてないから、素材のよさを存分に味わえる。

 但し、不満なのはパン類がいまひとつなことだ。デニッシュものがバラエティも豊富だが、ごく普通のパンの種類が乏しい。これは香港のどのホテルの朝食でも抱える問題である(って、大げさですかね!)。

 ホワイトブレッドだけでなく、ライ・ブレッド、グラハムブレッドなどなどに、フレンチ風、ドイツ風の各種のパンがあれば文句なしなのですが。

 というわけで、ハム、ソーセージ類とともに、パンケーキを食べたのでした。 

蟹黄魚翅撈飯(27)


 呉昊著「飲食~香江」に紹介されている呉昊仔が入手した「南園」の菜譜は、実に興味がつきない。
 従来の香港の宴席の大半を占めていた「八大八小」の構成を改め、やがては香港の宴席料理の構成内容の「十大件」の内容を知ることができるのも嬉しい。
 それにも増して、次いで紹介されている「南園」で供されていた料理の数々を紹介した菜譜をみれば、興奮しないではいられない。
 画像がそれである。まずは「鳳尾扒翅」を筆頭に「紅焼鮑翅」、「紅焼包翅」、さらには「蟹黄大翅」、「蟹蓉大翅」など、ふかひれ料理の数々が並んでいる。
 上段の一番最後にはなんと「蟹黄燕窩」まであるではないか。燕の巣の蟹みそあんかけ仕立てである。料理名をみただけで、思わず涎がこぼれてしまう。
 2段目に入って、干し鮑の料理が2種。それに続くのが「脆皮炸子鶏」(鶏の丸揚げ)、さらには「片皮焼鶏」まである。
 鶏を焼き上げ、北京ダック風にその皮を食べる、という趣向のものだ。すでに当時、北京ダックスタイルの鶏の焼き物があり、北京ダック仕立てで食べるというスタイルが定着していたことを物語るものだ。
 それら、鶏の料理の種類の豊富さにも目を見張る。さらに、続く頁では、法螺貝の料理があり、また、蝦の料理の数々が紹介されている。
 魚料理の素材であるのは烏魚。淡水魚のらい魚の一種で、蒸し物の「清蒸」、それに豚肉などの細切りなどとともに醤油煮込みにする「紅炆」がある。
 ついで「紅炆斑腩」があるのが驚きだ。「斑」と記されているからには、海水魚の「石斑」ということになるからである。
 さもなくば、ライ魚の一種の山斑魚か、もしくは、大ぶりの淡水魚で、腹身の部分が旨い「鯇魚」(そう魚)をつかったものなのか。
 その実態は不明であり、想像をたくましくするしかないのだが、ともあれ「南園」の菜譜は、見ているだけでも興奮を覚える。
 そして、香港におけるふかひれ料理の歴史、足跡がたどれる、ということでも興味深いものだ。

閑話休題~マカオ・香港の旅(6)


 今回のマカオ・香港の旅に際し、ガイドブックをいくつか購入した。久々にガイドブックを見ながら、ガイドブックの変遷ぶりを目の当たりにした。
 香港の知人である蔡瀾さんが大きくフィーチャーされている。TV番組「料理の鉄人」の審査員として登場し、日本にもその存在を知られるようになった蔡瀾さんは、日本に留学中、香港の映画会社の依頼で日本の映画を香港やアジアに配給する仕事に携わり、やがては香港の映画界でプロデューサーとして活躍。文筆家としてもその名を知られることになった。
 その後、映画界から離れ、文筆活動の傍ら、旅行関係の仕事などにも携わってきた。
 日本では「美食家」として知られる彼だが、美食好みよというよりも、お酒が好き。薦める料理も酒のつまみに格好な、辛口で味の濃いものが多い。
 BRUTUS誌の96年12月1日号の「97年6月30日、あなたは何を食べますか」で、対談した際、香港のお薦めの料理店、お勧めの料理を競い合ったことがある。二人で意見の一致を見た店がある一方、意見の相違があった際、その相違は、酒ありて食ありという蔡瀾さんに対し、食ありて酒ありという私の意見の差異によるもだった。
 蔡瀾さんとともに香港の「餐庁」事情に詳しく「香港無印美食」の著作で知られる龍陽一も、大きくフィーされている。
 
 龍は香港の食を愛してやまない我が愛弟子、香港兄弟の一人である。「餐庁」食についてのあくなき追求に関しては敬意を払うより他ない。
 ともあれ、ガイドブックを見ながら、一瞬、目が止まったのは、海鮮料理の店として「生記飯店」の名を見つけたことだ。
 もっとも、住所は湾仔だが、荘士頓道ではなく、軒尼詩道となっている。
 今回、マカオ・香港の旅でコーディネイターを務めてくれたJOYCEが、その訳を教えてくれた。
 なんと「生記飯店」は荘士頓道から軒尼詩道へと移転。しかも、その場所はかつて「酔湖」があったところだという。その話に驚いた。
 「酔湖」は忽然と現れ、忽然と姿を消した名店である。
 かつて洛克道に「叙香園酒家」という名店があった。以前、その九龍店の小菜のメニューを紹介してきた。広東地方の郷土料理の数々を看板にし、香港中にその名を知られていた。が、店のあった場所が再開発のため「叙香園」は閉店。
 
 その主要なスタッフ、マネージャーや料理人が、別の出資者何人かが湾仔で開店した「酔湖」に移動した。かつての「叙香園」を懐かしむ客が訪れ、たちまちのうちに店は絶大な評価を得た。食べることが好きな人々、食通、美食家の多くが、香港の名店、それも、好きな店として挙げた店だ。
 その「酔湖」については、また、改めてふれたい。
 さて「生記飯店」だが、荘士頓道にあった頃、私はひそやかに愛し、通ったものだ。
 その佇まいは香港のどこにでもあるような、ありきたりな小食店といった趣で、これといって目だったところはなかった。が、店頭に並んだ水槽をのぞきこめば、他の海鮮料理店のそれとは明らかに違った。蝦や蟹よりも九肚魚、獅子魚、梭囉など、広東省南部の沿岸部で取れる地魚が並んでいたからである。
 
 「生記飯店」の店主、料理人は、広東省の西南部、広州の南に位置する順徳地方の出身であり、同地の料理を看板にしていた。興味深い経歴の持ち主である。その話はいずれ紹介したいと思う。
 
 さて、元「酔湖」の後に居を構えた新しい「生記飯店」は、海鮮料理を看板にする店へと営業方針を改めていた。元「酔湖」のしつらえそのまま、店の隅の水槽に泳いでいたのは、石斑や立魚の類、それに蝦である。かつての店の店頭に並んでいた地魚の類は皆無だった。
 メニューをみると、順徳地方の郷土料理も並んでいる。が、それ以上にごく普通の広東地方の郷土料理が大半を占めていた。
 蝦を食べようということになった。 同伴者が、久々の香港だというので、白灼蝦を!と考えたが、それにふさわしい蝦はなかった。季節はずれだったからである。そう、蝦にだって旬があるのだ。
 水槽に泳ぐ蝦は中蝦で、明からに近海ものではなく、外洋産のものだった。
 それなら、茹でたり蒸すより、炒めるか、揚げものにするのがいい。
 そこで思いついたのが、炒めて醤油味で仕上げた「豉油王煎蝦碌」である。
 それは店のお勧めのメニューにもなっていた。
 果たせるかな、まずまずの味である。が、いささか「鑊気」、つまりは鍋の火の勢いに欠け、香りも乏しい。一体、どいうことなんだ?と、首をかしげた。
 もう一品、店のお勧めのメニューの「鹽焗鶏」。悪くはない。
 が、素材の鶏の質がいまひとつ。調理も鳥肌の色艶や照り、塩味の決めなど、いささか物足りない。もっとも、値段からすればいたしかたないく、それなりのものではある。
 「蜆介鯪魚球」を注文したのだが、塩味が利きすぎて、料理としての完成度はいまひとつ。
 ほっと心が和んだのは、なんてことない「蒸水蛋」だった。
 お粥が看板料理になっていて、何種類かあったが、今回はパス!
 「う~ん、あの「生記飯店」はどこにいってしまったのだろう!」。
 思わず遠い目になってしまった「生記飯店」だった。

2007/01/29

閑話休題~マカオ・香港旅行(5)

 
  マカオと香港。フェリーで1時間ほどの距離だ。が、遠い隔たりがある。マカオを訪れる度に、そんなことを思う。
 ことに食に関して、同じ広東の食文化圏にあり、大半の住民は広東人であり、広東料理を下敷きにしていながら、味、風味は異なる。
 そして、香港にマカオからの影響はないのか。一時、ポルトガル風タルト/葡式蛋撻が日本にも紹介され、少なからずブームを呼んだことがあった。香港から日本に紹介されたものだが、もともとはマカオから伝来したもの、ということだったから、やはりマカオと香港には何らかの関係、結びつきがあるのかと関心を持ち、その関係を知りたいと思ったこともある。 
 それ以前、80年代から90年代代にかけて、香港の料理店のメニューに「葡式」、あるいは「葡汁」といった表記をみつけたことだあった。浅はかにも、当時、それをポルトガル式、あるいはポルトガル風味、と理解していた。しかも、マカオから伝来した料理方法を取り入れたものだと理解、解釈していた。
 たとえば「醸焗鮮响螺」。小ぶりのほら貝の身のぶつ切り、蝦のすり身、豚肉のひき肉などを「葡汁」で混ぜ合わせオーブンで焼いた料理である。
 その「葡汁」だが、クリーム状のホワイト・ソース風のものだ。むろん、香港で中式西食を看板にする中国式洋食店の「餐庁」にあるような小麦粉をふんだんにつかった粉っぽい「白汁」とは違って、ダシもしっかりしたもので、オーブンで焼かれ、焼色もついている。いわば、海鮮のグラタン、ほら貝詰めのオーブン焼、とでもいえるものだ。
 80年代半ば、香港で最新の料理とサーヴィスを看板し、話題を呼んでいた「麒麟閣」、同店をさらにグレードアップした「麒麟新閣」の看板料理のひとつにもなっていたし、「麗晶軒」など、トップクラスのホテルの中国料理店のメニューにもあった。そのバリエーションが「葡汁海鮮飯」。簡単に言ってしまえば、海鮮のグラタン、ドリアといった趣のもので、これもオーブンで焼かれ、焼色がついている。
 似た様な料理に「醸焗鮮蟹蓋」がある。もっとも、それは「福臨門」など、伝統的な料理を看板にする店にあったものだ。蟹の甲羅にクリーム・ソースであえた蟹肉入りなどの具を詰めてオーブンで焼いたものだ。ただし、表面にはパン粉などをまぶしてやきつけてあるから、表面はコロッケなど揚げ物風の趣。が、味のベースは「葡汁」で、それを変化させたものだ。 
 ともあれ、「醸焗鮮响螺」にしろ「葡汁海鮮飯」にしろ「醸焗鮮蟹蓋」にしろ、明らかに西洋料理から影響大であり、それなしに生まれなかったのでは?と察せられる料理である。しかもそれらは「葡式」とされ、「葡汁」が味の要となっている。
 そして、「葡式」、「葡汁」が、単にポルトガル式、あるいはポルトガル風味のソースを意味するものではないことを後に知った。
 その昔、中国人が接した西洋人はポルトガル人であり、以後、西洋人はその出自がポルトガルであるかどうかは無関係に「葡国人」と称されることになった。極端な話「西洋人」とほぼ同義語だともいえるようだ。それは香港にかぎらず、中国本土でも同様であり、そうした記述を見かけることは少なくない。
 さて、マカオでの取材を終えて、我々一行は、香港へと向かった。到着早々から、取材、撮影に追われた。そして、その夜、湾仔の「生記飯店」に行った。
 画像は「生記飯店」の看板メニューのひとつ「鹽焗鶏」である。

2007/01/28

「南園」の菜譜



 呉昊著「飲食~香江」から。氏が古本屋でみつけた「南園」の菜譜が、同著で紹介されている。
 表紙についで、「南園」の「十大件」の内容が紹介されている。
 それからも明らかなように「十大件」以外に「四熱葷」、点心や面類、突き出しとして「二京生果」、「四飯菜湯」などもあわせて用意されていた。

蟹黄魚翅撈飯(26)

 「大三元」、「南園」、「西園」、「文園」。
 20世紀初頭の1910年代、広州で名店とされた4軒である。それぞれに代表的な名菜があった。
 「大三元」は「紅焼大裙翅」、「南園」は「紅焼網鮑片」、「西園」は「鼎湖上素」、「文園」は「江南百花雞」で知られていた。

 そのうち「南園」が香港に進出し威霊頓街に店を構えた。1920年代のことだったという。そして「南園」は「十大件筵席」を紹介する。

 それまで香港の料理店、というよりも料亭の料理構成の主流をなしていたのは、これまでに紹介してきたように「八大八小」だった。そこに「南園」が「十大件筵席」を香港に紹介する。それを契機に多くの料亭、料理店がそれに追従し、やがて香港における宴会料理の基本的な構成になる。それは現在も受け継がれている。

 当時、一般的に流行した「十大件筵席」は

 「蟹肉魚翅」(蟹肉入りのふかひれ)
 もしくは「雞蓉燕窩」(燕の巣と鶏のすり身の羹仕立て)、
 もしくは「清湯魚肚」(魚の浮き袋の澄ましスープ仕立て)

 「蠔油鮑片」(干し鮑の切り身のオイスターソース煮込み)
 「片皮火鴨」 (家鴨の焼き物)
 「油泡蝦球」 (むき蝦の炒めもの)
 「紅焼山瑞」 (すっぽんの醤油煮込み)
 「火腿拼雞」 (不明)
 「風乾吊片」 (一夜干しのするめの炒めもの)
 「清炖花菇」(干し椎茸の湯煎蒸しのスープ)
 「清蒸邉魚」(魚の蒸し物、魚は桂魚と淡水魚の偏魚(ハクレン) )
 「炸腰乾巻」(不明)

といった構成だ。 以上のうち「火腿拼雞」 は鶏肉の炒め物のあんかけに火腿を揚げたものを添えたもの、また、「炸腰乾巻」は、豚の腎臓を包み揚げだと思うが詳細は不明だ。
ともあれ、現在の香港の宴席で組み入れられる料理が大半を占めている。
また、ふかひれ料理の「蟹肉魚翅」だが、おそらく清湯仕立てで、当時の事情からすれば、とろみあんかけが施されていたものと想像される。

 そして「南園」の「十大件筵席」だが

 「紅焼包翅」(ふかひれの醤油煮込み)
 「瑞靄連絲」(すっぽんとれんこんの細切り煮込み)
 「大展鴻圓」(燕の巣の蟹みそ和え)
 「珊瑚百花鴿」(蝦のすり身塗りの鳩の揚げ物)
 「羽袖添香」
 「玉液金雞」
 「宣威掛爐鴨」(かまど焼の家鴨)
 「禄海鮮蹝」
 「蝶影梅花」(蝦のすり身塗り薄切り鮑、蟹みそあんかけ)
 「全福壽」

 といった構成内容だったという。

 以上の内、「羽袖添香」、「玉液金雞」、「禄海鮮蹝」、「全福壽」についての料理の詳細は不明だ。

 ともあれ、「十件」の中になかに「紅焼包翅」が含まれていることに興味をそそられる。

2007/01/26

閑話休題~マカオ・香港旅行(4)


マカオの食事情については、マカオ観光協会のサイトで紹介されている。
 それにしても「をいをい!」と文句をつけたくなるほど、その紹介は大雑把だ。
 たとえばポルトガル料理だが「オリーブオイルや少し辛目の香辛料、ニンニクなどでさっと軽く味付けしたものがポルトガル料理の特徴」と断言してしまう乱暴さに恐れ入る。
 マカオにあるポルトガル料理に行ってみればその断言がいかに乱暴で大雑把なものかがわかる。
 以前、dancyu誌の取材で訪れた際、同行してくれたマカオ観光局の方はもとより、ポルトガル料理の店を訪れるたび、店のオーナー、マネージャーや料理人から「ポルトガル、といってもいささか広うござんす。南北に伸びた同地の料理は、北と南、さらに、沿岸部と内陸部では異なり、それぞれの地方ごとに味付けも違いますし、独特の料理方法がありますから」と聞かされた。しかも、それぞれの店ごとに「ウチは○○地方の料理が看板です」として、それぞれの地方料理の特徴や代表的な料理方法、料理を教えられた。
 マカオでポルトガル料理の代表として紹介されることが多いバカリャウも、店ごとに味、風味は異なる。それは地方色の違いによるからだ、とのことだった。
 さらに、先のマカオ観光局のサイトでマカオ料理について「ポルトガル料理に中国、インド、アフリカ等各国料理の美味しさが加わって最終的に出来上がったのがマカオ料理だ。スパイスの効いた港町の料理といったところで、マカオ近海でとれる豊富な海の幸と中国からの野菜をふんだんに使っているのが特徴」、と記されている。
 言われてみればなるほど、と思う料理に「アフリカン・チキン」、「カレー・クラブ」がある。スパイシーでホット、しかも、エキゾチックな味と風味が特徴だ。
 もっとも、私の観察は異なる。マカオ料理の基本は中国料理、それも広東料理だ。そこに、かつての帆船時代、ポルトガルからマカオに至るまでいたるまでに点在する寄港地の地方料理、その料理方法やエッセンスがマカオにたどり着き、それらが、中国料理、それも主に広東料理に織り込まれ、生み出されたのがマカオ料理ではないか、ということだ。
 どうやら、マカオでポルトガル料理を看板する店は、およそ二つに区分されるようである。
 経営者、料理人がポルトガル人、もしくはポルトガル系の西洋人、あるいはポルトガルと中国系の混血による店。そして、それ以外のもの、という区分である。それ以外の店で圧倒的多数を占めるのは中国人の経営者、料理人による店だ。
 ポルトガル人の経営者、料理人による店は、前述のように、ポルトガルのどこかの特定の地域の料理を看板にし、それを特色としている。
 それが、ポルトガルと中国の混血系、中国人の経営者、料理人によるポルトガル料理店では、マカオ料理とされている料理もメニュー並んでいたりする。
 マカオ料理を看板にする店も、ポルトガルと中国人との混血系か、もしくは中国人によるものに区分されるようだ。両者にメニュー内容はほぼ共通している。が、その調理、味、風味が異なるのことは、実際に食べてみれば明らかだ。
 ややこしい話だが、それが現実なのだ。
 「一体、マカオ料理とはどういうものなのか!」という素朴な疑問から、食べ歩きを実践して得た結論である。
 
 ポルトガル料理、マカオ料理を看板にする店も、素材の吟味、調理の技術面から観察すればそれには明らかな差異があり、レベルも異なる。旨い店もあれば、まずい店もあるのが現実だ。
 その判断は個人的な嗜好に基づくものではない。素材、調理を吟味、検討しての評価である。
 日本で出版されているマカオのガイドブックの食ガイドを信用しないほうがいい、という理由はそうしたことによる。そうした観点からの評価は、皆無に等しい。という以前に、そこまでの追求はなく、ただただ料理店、料理人の意見をそのまま反映したものだからだ。
 マカオの食ガイドはもとより、日本の大半の食ガイドにも共通して言えることだ。、

 さて、先のマカオ観光局のサイトによる食案内だが、中国料理についての紹介も「北京、四川、広東、上海、潮州などお隣の香港で食べられる中国料理ならほとんど何でも揃っており、中国料理で困ることはない。マカオ人はさっぱりした味を好むので、日本人の好みにもよくあう」と、これまた大雑把だ。
 それもまた、ツッコミをいれたくなる紹介である。
 というのも、まず、多くの日本人が中国料理に対して持っているのは「中国料理というのは、脂濃くて、味が濃いもの」というイメージであり、それは共通概念として、すでに定着している。
 実際、香港などの高級料理店は「さっぱり」、というよりも「あっさり」、つまりは「清淡」な味を特徴としているのだが、多くの日本人客にとってそれはいささか物足りないものであり、それ以前に自身が体験し、認知してきた中国料理とは異なるもの、として拒否反応を示すことが多い、という。
 そのため、日本人客の「さっぱり」という要求に対して、現実には味を少々濃い目にする、というのは何度も香港の高級料理店のマネジャーや料理人から聞かされてきた話である。そして、日本人客は、それに納得し、「さっぱりしている!」と感想を述べる、という現実がある。
 さて「マカオ人がさっぱりした味を好む」という断言も実に大雑把なものだ。
 少なとも私が知り合ったマカオ人のすべてはそうではなかった。つまりすべてが「さっぱり」好みではなかった。
 さらに、彼らの言う「さっぱり」の真意は、彼らの日常食を知ってはじめて理解できるものであり、日本で語られる「さっぱり」とは、その意味、真意は日本のそれとは同じものとはいえないものだった。
 濃厚な味付けの料理もあって、決してマカオの料理のすべてが「さっぱり」とは思えなかった。
 それはマカオ料理店における「カレー・クラブ」や「アフリカン・チキン」の濃厚な味付けからも明らかだ。
 
 そして、マカオの中国料理は、たとえば広東料理など、香港のそれに比べ、穏やかで、素朴な味、風味を特徴している。実際に食べてみれば、それは明らかであり、これまでに触れてきたとおりだ。
 しかも、中国料理はマカオ料理に比べ、淡白なもの味、風味を持つものが多い。
 つまり「中国料理といえば脂っこくて、濃い味付けのもの」と言う認識をもつ多くの日本人にとっては、むしろ、物足りなさを感じるのではないだろうか、というのが私見である。
 残念ながら、マカオの四川料理、上海料理、潮州料理を食べる機会にはめぐまれていないが、住民の大多数を占めるのが広東人であり、特有の嗜好をもっていることや、同じ広東人が大多数を占める香港でのそれら各地の料理を思い浮かべれば、その現実は推して知るべし、といえるのでないだろうか。
画像はセナド広場。さらに、フランシスコ・ザビエル教会にあった、ザビエルの像である。

2007/01/25

閑話休題~マカオ・香港旅行(3)




香港とマカオ。いずれも広東省の南部に位置する。フェリーで一時間ほどの距離だが、香港とマカオでは街の風情、佇まいはまったく異なる。

 香港はイギリス、マカオはポルトガルの領地だったという歴史にも関わりのあることだ。いずれも住民の大多数を占めるのは広東系の中国人だ。 もっとも、香港では広東省東部の潮州から香港に移住した潮州系の中国人が多く存在し、香港島では上環から西環にかけて、九龍半島では九龍城市を中心に潮州人が住み着き、コミュニティーを形成してきた。その名残は今も残っている。たとえば、香港化された潮州料理ではなく、本場潮州の郷土料理を伝える店は上環と九龍城にしかない。

 また、香港では上海系中国人の存在を見逃せない。戦後、ことに中華人民共和国の成立前後、上海から移住してきたもので、香港島では北角、九龍半島では尖沙咀に住み着き、それぞれ上海系のコミュニティーを形成していた。

 上海系の中国人は、広東系、潮州系に比べて人口比率は低い。が、上海から移住した海運、金融、紡績業を営む上海系の資本家が戦後の香港の繁栄に大きく貢献し、経済面のみならず政治面などでも大きな位置を占めてきた。それは今も変わりない。それに、戦後の香港の文化、娯楽面において上海系の中国人が果たした役割は大きく、映画、TVなど娯楽産業の中核をなしてきた。

 さらに九龍半島の鑽石山には四川系のコミュニティー、香港島の北角には上海系の中国人と隣り合わせに共存する形で福建系の中国人のコミュニティーが存在した。

 そうしたことからも明らかなように、香港は広東系の中国人が大多数を占めるとともに、中国各地の出身者も共存し、それらが混在した上で独自の中国人社会を形成してきた街だといえよう。

 それに対し、マカオの中国人社会は広東人が多数を占め、中国各地からの移住者が占める割合は少ない。街ののどかさ、素朴さ、田舎っぽさ、いなたさも、そうしたことと無関係ではないようだ。地続きの広東省、それも、広州などに通じる特有の雰囲気、佇まいがある。

 マカオの中国料理についても同じことが言えるようだ。
 たとえば、マカオではトップにランクされている広東料理店の「西南飯店」の料理の数々、ことに味の要である上湯がそれを物語っている。

 香港の高級料理店の上湯が、徹底的に旨味を追求し、濃厚なエキスを抽出し洗練をきわめているのに対し、「西南飯店」の上湯は、旨味、洗練を追求しながらも、穏やかで優しい。それも、どこか広州の高級料理店とあい通じるものがある。

 ごく庶民的な中国料理店である「冠男酒樓」の点心の類なども、みかけこそ香港の料理店のそれと変わりないが、味わい、風味は、広州の料理店の点心に通じるものがある。  

 街中の粥麺店なども同様だ。たとえば、雲呑麺のダシの味も、素朴でひなびた独特の味わい、風味がある。

 今回、滞在したリスボア・ホテルのモーニング・ビュッフェに飲茶の点心、粥が麺があった。香港のホテルのモーニング・ビュッフェにあるものとは対照的に、その味わいは穏やかで優しく、独特の風味、香りを持っていた。そう、今回のマカオ旅行の最初の夜に食べた広東料理店の料理の数々と相通じるものがあった。

 画像はリスボア・ホテルの朝食のビュッフ。最初、飲茶の点心を食べ、ついで、幅広ビーフンの河粉にした。
 麺、河粉の具は雲呑か豚肉の団子の肉丸だけだったが、粥のために用意されていた鯉科の鯪魚のつみれの「鯪魚球」を見つけ、頼んで加えてもらった。

2007/01/24

蟹黄魚翅撈飯(25)

 はたして香港のふかひれ料理事情の歴史はいったいどのようなものだったのだろうか。
 
 先の呉昊著「飲食~香江」、また、同著がしばしば引用している子羽著「香港掌故」、あるいは陳謙著「香港舊事聞見雜録」などにそれらが紹介されている。

 香港で最初に創業した料理店、というよりも料亭は「杏花樓」だったことはすでにふれてきた。
 「杏花樓」が創業した水杭口は、もともとは「妓院」が数多く存在した地域である。「杏花樓」も、もともとは富裕層を顧客とする「妓院」に飲食を供応するための料亭として創業を開始したようだ。燕窩と魚翅の酒席で知られ、順徳人の料理人を抱え、「鳳城風味」を特徴としていた、と記されている。

「鳳城」とは広州の南西部に位置する順徳、太良地方の旧名で、魚米の郷とされ、数多くの名菜があり、数多くの名料理人を生んできたところだ。

 その後、水杭口には数多くの料亭が誕生するが、1903年、香港政府は「妓院」に水杭口での営業を禁止し、上環より西に位置する石塘咀への移転を指示する。

 「妓院」の移転にともない多くの料亭が同地に移転した。当時、石塘咀は未開拓な地域であったことから、広大な敷地を持ち、様々な趣向を凝らした料亭が相次いで誕生することになる。

 さて、当時の料亭では「四局」、つまりは「雀局」(麻雀)、「花局」(芸妓との遊興)、「響局」(芸妓などによる歌舞)、「煙局」(阿片の吸引)の場が設けられ、それらを楽しんで後、宴席がはじまるという次第だった。

 宴席の内容だが、当時は「八大八小」による構成が流行していたという。

「八大」というのは「八大件」、つまり八種の大菜を意味する。その内容は以下の通りだ

 「蟹黄鮑翅」(蟹みそあんかけ仕立てのふかひれの姿煮込み)
 「紅焼網鮑」(干鮑(まだか鮑)の醤油煮込み)
 「片皮乳豬」(子豚の丸焼き)
 「大響螺片」(ほら貝の薄切りの湯びき)
 「高湯魚肚」(魚の浮き袋の上湯仕立て)
 「蒜子瑶柱」(にんにくと干し貝柱の煮込み)
 「清蒸鱖魚」(けつ魚の蒸し物)
 「甜燕窩羹」(甘味仕立ての燕の巣の羹)

である。

 「八小」というのは「四熱葷」、つまりは四種の熱い小菜と四種の冷菜のことである。
 まず「四熱葷」だが

 「竹笙雞子」(衣笠茸と鶏肉の煮込み)
 「香糟鱸魚球」(すずきのぶつぎりの糟汁煮込み)
 「炒田雞扣」(蛙の腿肉の炒め物)
 「滑鮮蝦仁」(小蝦の炒め物)

 そして「四冷葷」は、以下の通りだ

 「瓜皮海参」(瓜と干しなまこの和え物)
 「涼瓜肚蒂」(苦瓜と豚の胃の先端部分である肚尖の和え物)
 「冷拼賢肝」(家鴨の肝の冷製)
 「八珍焼蝋」(八種の焼き物)

 以上の料理以外に宴席前にはつまみ、付き出しとして「二京二生」が用意されていた。
 「二京」とは北京風の甘味のつまみである准山(干した山芋)のシロップ煮込み、南方の棗や胡桃の揚げ物、「二生」として、水菓子、新鮮な果物、たとえば柚子や橙などだったという。

 「八大」の大菜のうち「蟹黄鮑翅」、「紅焼網鮑」、「大響螺片」などは現在の香港の広東料理の高級宴会料理の主菜となっている。また「片皮乳豬」も前菜として登場する。
 その一方で、魚の浮き袋を戻し、上湯の澄まし汁仕立てにした「高湯魚肚」などは、今では事前に注文しない限り、お目にかかれない。

 そして、「大響螺片」のほら貝、「香糟鱸魚球」での鱸(すずき)などは海水魚だが、宴席を締めくくる魚料理「清蒸魚」の素材は淡水魚の「鱖魚」であるのが興味深い。

 「鱖魚」はハタ科の魚で「桂魚」あるいは「桂花魚」の名称を持つ。広大な河川や湖沼で生息する淡水魚であり、中国では最も高級な魚とされ、宴会料理の華となってきた。
 先に紹介してきた『香港・台北いい店うまい店』に紹介されている高級料理店のメニューの中にもみつけられるように、香港では海鮮の流通が盛んになる70年代になるまで、宴会料理では大きな位置を占めていた。それは、海鮮の魚介の入手が難しかった当時の事情を物語るものでもある。

 「八大八小」、「四大四小」を構成する料理の数々、また、宴会料理における料理構成は、現在の香港の広東料理の宴会料理に受け継がれている。現在の香港の広東料理の原点にもあたるものだが、それらはすべて広州の宴会料理の様式にならっていた。つまりは、広州の宴会料理こそ、香港の広東料理、それも宴会料理の源流にあたるものだったのである。

2007/01/23

閑話休題~マカオ・香港旅行(2)

















 以前、香港の観光目的の滞在は1週間に限定されていた。香港で長期に滞在する際、移民局に出向いて滞在日数を申請するか、もしくは、一端、近隣の國に出国し、再入国する必要があった。そんなことから広州やマカオへの日帰りの旅や、後にはタイやヴェトナムに飛んで香港に戻る、といったことを繰り返していた。

 それ以外に、マカオにはdancyuの取材で出かけたことがある。その際、食事情については事前に信頼のおける香港の友人はじめ、綿密に情報を収集し、地元で評判の主要な中国料理、ポルトガル料理、マカオ料理の店を巡り歩き、試食し、吟味し、納得した上で同誌で紹介する店や料理を決めた。

 それまでのマカオ旅行で日本のガイド・ブックを頼りにし、ことごとく失望させられるという苦い体験があったからだ。ちなみに、日本の最新のガイド・ブックを見ると、そうした事情は昔と変わらないようだ。もし、おいしい料理に出会いたいと思うのなら、日本のガイドブックはあてにしないほうがいい。

 ともあれ、dancyuの取材時に見つけ出したのは、翅針が箸の太さほどのふかひれの「天九翅」の料理や「烏骨雞」でダシをとった上湯を看板にする「西南飯店」。
 マカオという土壌に根付いたポルトガル料理を看板にする「坤記餐庁」。塩味をしっかり利かせた同店の料理の数々は、東京の下町に根付いた洋食店のそれをほうふつさせる独特のスタイリッシュな美学が貫かれていた。
 もう1軒、ポルトガル人夫妻がオーナー・シェフを務めポルトガルの郷土料理を看板にするコロアン島の「Cacarola」である。

 今回、「西南飯店」にも出かけられなかった。「坤記餐庁」も、どうやら休業してしまった様子だった。それに「Cacarola」もなくなってしまっていた。
 そして今回のマカオ・香港の旅のコーディネイターを務めてくれた香港の知人のジョイス・ワンが探し出してくれたのが「solmer」だ。

 店のたたずまい、サーヴィス、客層から即座に老舗とわかる風格がある。料理も実に充実していた。
 
 戻した干しダラとジャガイモによるコロッケ風のバカリャウは質実そのもの。サクっとした衣の歯ざわりが物語る揚げ方の巧さ。素朴な味わいながら、香ばしい風味が口中に広がる。

 マカオソールのディープ・フライも、カリっとした衣と緻密な肉質の対照に、思わず頬が緩む。これまた風味が豊かだ。

 そして、きわめつけといえるのが咖哩蟹、カレー・クラブだ。青蟹の一種、雄蟹の肉蟹をカレー味で料理した一品だ。蟹肉も旨い。が、それ以上に、ホット&スパイシーで、なおかつ肉蟹のエキスを含んだスープが旨く、思わずご飯を注文し、即席のカレーライスを存分に味わった。

閑話休題~マカオ・香港旅行(1)




この15日から、マカオ・香港に旅をした。文藝春秋の臨時増刊号の取材旅行である。旅先での毎日を記すつもりでPCを持参したものの、ACアダプターを持参するのを忘れるというドジをしでかし、この1週間、何も書き込めずにいた。

 さて、旅のはじまりはマカオから。宿泊先はホテル・リスボア。街中の風情は以前と変わらず、香港などに比べればのどかで田舎っぽい。

 とはいえ、ウォーターフロントにはラスヴェガス・スタイルのカジノを備えた新しいホテルが立ち並び、本土からの中国人観光客が以前にも増して目立つなど、以前とは異なる活気に溢れていた。

 そして、マカオの食。スケジュールの都合から、一番のお目当てだった西南飯店には行けずじまい。到着した日の夜の食事も、ホテル・リスボアに新しくオープンしたばかりの広東料理店で。

メニューを見ると広東料理の家郷菜があって、そのいくつかを注文。全体「鑊気」、つまりは「火の勢い」に乏しい寝ぼけてトボけたような茫洋な味付け、調理で、なんとも「いなたい」のが、マカオらしい。

 それでも梅菜(雪菜の客家風味の漬物)入りの豚ひき肉の蒸し物に茄子を敷いた「梅菜蒸肉餅茄子」、豚の胃の尖端と鹹酸菜(芥子菜の漬物)を炒めた「肚尖鹹酸菜」など、独特の風味があって、旨かった。

2007/01/13

懐かしの香港、上環の茶樓


 再び呉昊著「飲食~香江」から。
 この写真も、以前、他の書籍でみかけたことがある。
 「香港的舊式茶樓、樓高三樓、甚有特色」との注釈がついている。階によって値段が異なり、利用客も違った、という事情があってのことだった。
 中国人居住区で商業の中心地だった上環にこうした茶樓がいくつも誕生した。
 得雲はその代表的なものだが、とうの昔に「結束」、つまりは、営業を停止してしまった。

蟹黄魚翅撈飯(24)

 それにしても日本でふかひれのしょうゆ煮込みが食べられるようになったのは、いつ頃のことだったのか。また、いったい誰がそれを日本にもたらしたのか。初めてそれを紹介したのはどんな店だったのか。興味はつきない。

 たとえば谷崎潤一郎の「美食倶楽部」に登場するふかひれの料理は「鶏粥魚翅」。
 広東料理にすり身にした鶏肉とふかひれを具にし、たっぷりととろみをつけたスープ仕立ての「鶏蓉魚翅」という料理がある。

 粥仕立てということでは、鶏肉よりも「鷓鴣」を微塵切りにし、燕の巣、山芋ととも煮込み、とろみをつけた「燕窩鷓鴣粥」がある。
 広東地方の郷土料理の名菜のひとつで、香港の「陸羽茶室」の定番メニューのひとつになっている。

 ともあれ「鶏粥魚翅」はふかひれの姿煮ではなく、ほぐしたふかひれを使ったスープ仕立て、というよりも羹仕立ての料理のはずだ。

 それから19年後に世に出た「竹田胤久編著による「隋園食單新釋補填~支那料理基本知識」では、袁枚のふかひれ料理2種の訳の後で、「紅焼魚翅」が「鱶の鰭の醤油煮」として、追記のような形で紹介され、その作り方も紹介されている。

 はたしてそこでの「紅焼魚翅」のふかひれが、「鮑翅」、もしくは「排翅」など、ふかひれの形状の残したものだったのか。
 それともふかひれをほぐした「生翅」もしくは「散翅」だったのか。

 そこであわせて紹介されている「肉絲魚翅」、「鶏汁魚翅」は、間違いなくスープ仕立て、それも羹仕立てのようだ。

 そして、興味深いのは巻末の「現代の料理名と解説」である。
 まずは 「貴重料理」として(鹿鳴春飯店菜譜)として、燕の巣、ふかひれの料理が紹介されている。
 次いで、並線で区分けされ、、鶏、牛豚羊肉料理、魚介類料理、卵料理、野菜類料理、點心類料理などが紹介されている。

 後書きなどから察するところ、並線以後の料理は、上海広文書局出版の「食譜大全」をもとにしたものらしい。

 そのうち鶏肉の料理には「風雞」や「酔雞」など、後に上海料理に取り込まれた周辺の料理が随所に見られる。肉類の料理も同様だ。
 ともあれ、上海料理がどのように形成されていったかを知る手がかりになる。

 そして、「貴重料理」だが、まずは燕の巣の料理の数々が紹介されている。
 ついでふかひれの料理が並んでいるのだが、そこには「紅焼魚翅」は見当たらない。

 ちなみに、紹介されているふかひれの料理とその解説は以下の通りだ。

 一品魚翅/鱶の翅に筍茸ハム油菜など配したもの代表的料理のひとつである
 清湯魚翅/鱶の翅にハム筍茸油菜など配したる汁物
 三鮮魚翅/鱶の翅に雞肉筍茸海参などを加えたるもの
 三絲魚翅/鱶の翅に雞肉筍ハム油菜などを絲のように切ったもの
 桂花魚翅/鱶の翅に玉子の黄味を加え少量のハムを加える
 雞絨魚翅/鱶の翅に叩きたる雞玉子を加え少量のハムを配したもの
 佛手魚翅/鱶の翅に雞肉の擂味を配して佛の手の形につくりたる汁物

 その解説からすると、実際に食べたことがあるもの、料理名からその実態を試みて解説したもの、というのが分かるのがおもしろい。
 が、ここにもふかひれの姿煮のしょう油煮込みはみあたらない。
 ただ、料理内容からするとふかひれの形を残した「鮑翅」もしくは「排翅」を使った料理が含まれているようだ。

2007/01/11

懐かしの香港、水杭口附近の写真

香港の食の歴史をたどった呉昊著「飲食~香江」からのパクリ画像。同著に収録されたこの写真自体、他でみたことがあるから、孫パクリとなるのかも。1846年、香港で最初の料理店が誕生した。その名は「杏花樓」。料理店というよりも料亭と言うにふさわしかったようだ。香港島の上環の水杭口で創業を開始。その水杭口の街の面影を伝えるのがこの写真である。

蟹黄魚翅撈飯(23)

 先の「中国食文化辞典」(角川書店)に「中国本土の食文化」という項目がある。
 中国本土を東西南北に区分して、それぞれの地域の料理、特色について触れたものだ。

 そこに「東方系の料理」として、華中の東、長江下流の江蘇、浙江、安徽省を中心とした地域がそれにあたり、蘇州、揚州、杭州、無錫、安徽、寧波、上海に特色ある料理が存在し、区分されているとが紹介されている。
 もっとも人口が多いのが大都会の上海。かといって、上海料理がその地域を代表するものではなく、それぞれ特色があると触れられている。

 確かに揚州を中心とした淮揚菜など、塩の集散地として発達し、多くの豪商がいた歴史を背景に、豪華であるだけでなく洗練を極めた宴会料理が数多くある。清代の乾隆帝が南巡で揚州を訪れた際、淮揚の美味に魅せられ、結果、北京の宮廷料理に取り入れられることにもなったというエピソードもある。

 杭州料理も洗練された独特の美味がある。清淡、つまりはさっぱりとした湯類があるかと思えば、老抽、つまり、色は濃いが塩分のすくない中国のたまりしょう油をふんだんに使って鯇魚を煮込んだ「西湖醋魚」、皮付きのバラ肉を煮込んだ「東坡肉」がその代表だ。

 無錫の黒酢と砂糖で味つけしたキャラメル風味の「無錫排骨」も有名である。寧波は、塩味の利いた素朴な家庭料理、それに沿岸部であることから華中では珍しく魚介を使った料理がある。 

 そして、滬菜として知られる上海料理。前述の通り、基本は家庭料理だ。そこに、先にふれた周辺の地方料理が取り入れられ、しかも、特徴ある味、風味を持つ宴会料理が生まれていった。

 「上海料理の特徴は、砂糖としょう油をふんだんに使った、甘く、塩辛いしっかりした味つけが特徴だね」とは「老正興菜館」のオーナーの沈有國氏。
 「それに湯を作るのに火腿をふんだんに使う。金華火腿だ」と。

 上海の周辺には、紹興の紹興酒、鎮江の黒酢、金華の火腿がある。さらに、しょう油に加えて、味噌が豊富だ。

 日本にも伝わって和歌山の名産にもなっている徑山寺味噌の故郷は杭州の徑山寺。その徑山寺味噌のたまりを調味料として使うのもこの地域独特のものだ。

 上海、及び、その周辺はしょう油、味噌も種類が豊富である。上海の家庭料理はそれを巧みに使い分ける。つまり醗酵味の旨味、酒、砂糖の甘味、さらには火を通せば酸味だけでなくコクのある旨味をかもし出す黒酢も使われる。調味料をふんだんに使い、それらを組み合わせ、濃厚な味付けで、しかもコクのある旨さ、風味を追及したのが上海料理だ。

 さらに、金華火腿をふんだんに使って上質のダシをとり、葱の香り、甘味、辛味を移した葱油、あるいは、鶏油を仕上げ油に使い、濃厚な味わいで、独特の風味を持つ甘辛いしょう油煮込み料理が生まれていった。
 
 ことになまこやふかひれなどの乾貨素材の料理方法は独特のものがあり、宴会料理の華となったのである。上海の繁栄を背景に、1920~30年代に隆盛を極める。時代の最先端を歩む、新趣向の料理、だったようだ。

 30年代前後、数多くの上海の料理人が日本に招かれたが、彼らが持ち込んだのは、そうした最新の上海料理だ。それまで日本の中国料理の大勢を占めていたのは広東地方の郷土料理だが、そこに「海派」が登場し旋風を巻き起こす。それが日本における中国料理の宴会料理の流れを変えた、のではないかと私は想像するのだが、どうやら事実だったようだ。
 
 宴会料理といえば「海派」、つまりは上海式のそれが主流を占めるようになり、横浜の中華街の勢力図が大きく変わったこと。それは、戦後、中華人民共和国が誕生の前後まで中国本土と密接なつながりを持ち、上海料理の優位が続いた、とは「赤坂璃宮」の譚彬彦さんから聞いた話だ。そして、上海料理は、やがて、横浜から東京へ、さらには全国へと日本中に広まる。

 ところで「あまから手帖」の上海料理特集だが、なぜに、本場の上海ではなく、香港に行ったのか。
 それは香港取材の話が持ちあがり、これまでにない香港を紹介する、というテーマから始まった。そこに、私が加わり、香港には、上海にはなくなってしまった上海料理の黄金期の伝統を受け継ぐ店がいくつもあると提案したことで、GO!となったものである。

 いや、香港だけでなく、実は、東京にも1920~30年代に栄華を極めた上海料理の伝統を受け継ぐ店が、90年代になるまで数多く存在していた。 今となっては、赤坂の「樓外樓飯店」など、その数は限られる。

 ともあれ、日本で上海料理は大きな位置を占めてきた。なかでも、上海系のふかひれのしょうゆ煮込みは、日本のふかひれ料理に大きな影響を及ぼしてきたのだ。というのは私の想像であり、持論なのだが、どうやらそれは事実だったようである。

2007/01/08

蟹黄魚翅撈飯(22)

 「老正興菜館」のオーナーである沈有國氏が語るには「上海料理といっても、昔からあって、正真正銘の伝統的な上海料理といえるのは、20種ぐらいのもんだよ。それもほとんどが家庭料理なんだね。

 そもそも上海の歴史を見ればよくわかることなんだが、上海は開港してから発展してきた。今、上海料理とされているもの、ほとんどの料理は、1930年代に上海周辺の料理をまとめて上海料理と語るようになったものだね。だからその歴史は100年にも満たない。

 おまけに戦争に巻き込まれ、47年に中華人民共和国が誕生して、その歴史も、伝統も、寸断されてしまったんだから」というのである。

 上海が貿易港として発展し、海運、金融の中心地となり、また、紡績などの軽工業を中心に繁栄を極めたのは20世紀に入ってからのことだ。

 ことに1920~30年代はまさにピークを極めた時代だった。そうした都市の繁栄を背景に、食文化も発展を遂げてきた、というのはすでに知られていることだ。

 ついでながら娯楽、ことに映画産業も飛躍を遂げて、東洋のハリウッドとまで語られるほどにもなる。 そして、食だが、先の沈さんの言葉通り、上海には、伝統的な上海料理は、家庭料理以外にはなかった、というのは事実のようである。

 たとえば、上海料理の代表的な料理とされる「東坡肉」は、前述の通り、本来は杭州の名菜とされるものだ。もっと身近な例でいえば、スープ入りの饅頭の「小籠包」も、厳密には上海郊外の南翔の名物である。
 
 上海が都市としての発展、繁栄するにあたって、その牽引力となったのは資本家だが、それを支えたのは地方から流入してきた労働者である。そして、彼ら、及び、都市で生活する一般庶民の食を担ってきたのは、手軽な軽便な小吃類、饅頭や麺類、簡素な惣菜の類だった。
 
 といった食事情は、都市社会が形成される過程における食事情は、どこでも共通しているものだ。
 江戸における蕎麦、深川丼をはじめとす丼飯、寿司、そして、北京における饅頭や餅の類や特有の小吃類を見れば明らかだ。
 
 上海の小吃の中心となったのも饅頭類、それに粗麺を主体とする麺類だったようである。

2007/01/07

隋園食單新釋補填~支那料理基本知識のちらし


 下に紹介した「隋園食單新釋補填~支那料理基本知識」についていたチラシである。「国策線上に登場新刊教程」という見出しがついている。

 「支那事変」の勃発という緊迫した社会状況を背景に、この書を刊行した目的、要点は、国民の体位の低下、体格の劣化を招く動物性蛋白質や油脂の欠乏に対処するために、日常の食事やおやつにも油脂を用いる「支那料理」の様式を取り入れ、それを補給する。
 また、大陸生活の場合を想到して平素から相当の食慣習をつけておく用意のため。なんでも有り合わせのものを活用し、無駄にしない「支那料理」から時局柄学ぶべきものが多い、とある。

 さらに、初心者、家庭人から女学校割烹科の教員、「日支西」の調理師、「支那料理愛好家」は常識を得、大陸生活に進出する人々は。その食習慣と支那語を知る等、利用範囲の拡大化は論をまたず、とある。
 時代を映し出したチラシである。  

蟹黄魚翅撈飯(21)

 小菅桂子さんの「にっぽんらーめん物語」の「にっぽん中国料理史」によれば、日清、日露の戦争が日本で中国料理が広まる要因になったという。

 たとえば中国料理に不可欠な豚肉の生産が高まることになったのだが、それというのも日清、日露戦争において軍隊の食料供給のために牛肉の需要が高まり、値段の高騰を招いたことが、豚の飼育に拍車をかけ、市場に出回るようになったこと。

 前後して、豚肉同様に中国料理の必需品である油、ことに大豆油の生産が増加し、菜種油をしのぐようになったこと。あわせてごま油の生産の増加などもあったという。 また、日清、日露の戦争後、中国との交流が盛んとなり、それが中国料理への関心を高め、やがては家庭料理にも取り入れられ始める。

 中国料理への研究熱が高まり、料理研究家が相次いで中国にわたり、その実態にふれ、新旧の中国料理を紹介するようにもなった。さらに、谷崎潤一郎はじめ、多くの文化人が中国を訪れ、中国の文化とその現状を紹介するようになった。それら文化人の関心を集めたのが上海である。

 上海は長江河口に位置する漁村でしかなかった。それが、アヘン戦争後の南京条約により、香港などとともに開港。1848年にはイギリス、フランスの租界地が設置される。以後19世紀後期から20世紀初頭にかけて急速に発展を遂げ、ことに1920年代から30年代にかけて上海は極東では最大の国際都市として繁栄を極めて、時代の最先端を歩む都市となっていた。

 「海派」、つまりは上海風と語られたように、中国本土でも上海で生まれた文化は最新の流行として全土中に浸透していった。それは、日本にももたらされることになる。た。言うまでもなく食、中国料理についてもだ。

 明治以後、主に横浜を基点に日本に広く浸透して行った日本の中国料理の大多数を占めていたのは、広東系のそれである。そこに「海派」、つまりは上海系のそれが加わることになった。明治の末期以後、大正時代になって一気にその数を増やすことになった中国料理店で、本場風を掲げる店は中国本土から料理人を迎え入れた。中でも重視されたのは上海から招かれた料理人、だったという。
 
 谷崎潤一郎が「美食倶楽部」で「浙江料理」に執着したもの、そうした時代の風潮とは無関係ではあるまい。もっとも「上海」ではなく「浙江」としたのが興味深い。

 それは谷崎が「ほんとうの支那料理」を求めていたからであり、「上海」ではなく「浙江」にこそ、その源流のひとつであるという認識に由来するものなのに違いない。
 
 2000年の秋、「あまから手帖」で香港における上海料理の取材に赴いた。というより、半ば強引に参加させて貰ったものだが。その際、「老正興菜館」のオーナーである沈有國氏から面白い話を聞いた。

2007/01/06

隋園食單新釋補填~支那料理基本知識


 竹田胤久編著による「隋園食單新釋補填~支那料理基本知識」(陶樂荘)。昭和十三年八月十三日印刷、十八日発行と奥付にある。
 袁枚の「隋園食単」の訳本であると同時に、注釈に中国料理の知識や料理を紹介。
 ふかひれの項目のところに「紅焼魚翅」の紹介がある。
 巻末ではどうやら上海の鹿鳴春のものと思われる「菜単」から数々の料理を紹介し、解説を加えてあるのが面白い。
 当時の料理店事情がわかる貴重な書だ。
 不勉強にも竹田胤久をしらないが、あとがきによれば、河北省出身の留学生を預かったことをきっかけに「支那料理」に興味を持ったという。さらには四川料理に関心を持ち、他に浙江、揚州、広東の中国人料理人とともに日本に招聘すべく準備していたものの、支那事変の勃発とともに、実現に至らなかった、とある。
 それにしても、当時、四川料理に関心を持っていた、というのが興味深い。

蟹黄魚翅撈飯(20)

 谷崎潤一郎が『美食倶楽部』を発表したのは大正八年(1919年)のことだった。
 先の小菅さんの『日本ラーメン物語』からすれば、中国料理への関心が高まり、中国料理店が登場するだけでなく、家庭料理として取り入れられ始めた頃、ということになる。
 
 その時点で、谷崎はすでに中国料理を熟知し、体験し、知識を持ち合わせていた。それは同著にも明らかだ。

 同著において主人公であるG伯爵は、未だ真の支那料理を食べたことがなく、横浜や東京にある怪しげな料理は経験しているが、それらは大概貧弱な材料を使って半分は日本化された方法の下に調理されたもの、といった嘆きが語られる。それは谷崎の嘆きでもあって、すでに東京や横浜の中国料理のほとんどを食べつくし、また、真の中国料理を食べたいという願望の現われでもあったのだろう。 

 そして、たまたま見つけ出したのが支那人ばかりが集まる「浙江会館」だった、という設定が鋭くて深い。

 そこで、谷崎の年譜を調べると『美食倶楽部』を発表する前年に、朝鮮、満州、中国に旅行したとある。さらに、その後、26年に中国を訪れ、『上海交遊記』、『上海見聞録』を発表。(とは、ウィキペディアの丸写し!)。

 ともあれ『美食倶楽部』には様々な中国料理が登場する。
 その中に「鶏粥魚翅」というのがある。実際の料理は「鶏粥魚翅」ではなく、喉元を過ぎて「鶏粥」と「魚翅」の風味が醸しだされる、というのも絶妙の設定だ。

 それからうかがえるのは、ふかひれはスープ仕立てであり、姿煮ではなかったということだ。
 当時、はたして谷崎はふかひれの姿煮を食べたことがあったのかどうか。
 いや、あったはずだ。1918年の中国への旅行でもそれを体験したのではないか、とにらんでいるのだが、それを明らかにするものはない。

 それよりも、G伯爵がたまたま見つけ出した支那人ばかりが集まる場所を「浙江会館」としたことに興味をそそられる。

 浙江省は上海に隣接し、省都である杭州をはじめ、寧波、紹興、温州などを含む地域だ。さらに、南京、無錫、徐州、常州、蘇州、揚州、鎮江などを擁する江蘇省とともに、それらの地方に独特の郷土料理こそは、いわゆる上海料理の源流となったものだ。

 谷崎が『美食倶楽部』を生み出した背景には「浙江料理」への強い思い入れがあったのに違いない。

 「……伯爵はまた、支那のうちでもことに浙江省附近は、最も割烹の材料に富む地域であることを知っていた。浙江省の名を耳にする度毎に、そこが白楽天や蘇東坡を持って有名な西湖のほとりの風光明媚なる仙境であって、しかも松江の鱸や東坡肉の本場であることを思い出さずにはいられなかった」という一文が、それを如実に物語っている。

 ちなみに、香港の中環に「江蘇浙江会館」がある。
 ウエリントン通りにある「寧波同郷会」の食堂は、一般客も利用することが出来るが、「江蘇浙江会館」の食堂は、同郷人、および、その関係者だけが利用できる会員制のようだ。

 話を戻して、谷崎は『美食倶楽部』において、中国料理の中でも「上海」に着目し、それを描き出したかったのではないだろうか。おそらく間違ってはいないはずだ。

2007/01/05

蟹黄魚翅撈飯(19)

 日本で中国料理のふかひれの料理が、いつ、どのような形で紹介され、それがいったいどんなふかひれ料理だったのか。また、どうやって広まっていったのか、大いに興味を覚えるところだ。

 「それは難しい話だわ。だいたい、日本での中国料理の歴史、変遷を調べようにも、資料は限られているし、その実態はわかりにくいからね。その、断片がわかるだけだから」と、おっしゃったのは、今は亡き小菅桂子さんである。
 食文化研究で知られ「にっぽんラーメン物語」や「にっぽん洋食物語大全」はじめ、数多くの著作がある。小菅さんとは、かつて私がキャスターを務めたNHK-TVの「男の食彩」で、上野毛の「吉華」を紹介した際、ゲストとして迎えたのをきっかけに、何度かお話する機会を得た。2000年度の芸術選奨の審査会で久々にお目にかかり、長話をした時のことである。

 「にっぽんラーメン物語」の第9話「にっぽん中国料理史」は、小菅さんが明治の文明開化を迎えて以後の日本のおける中国料理の登場やその変遷をまとめたものだ。

 文明開化、とは西洋にならえを意味し、西洋文化一辺倒の時代だった。それも、政府高官御用達の高級西洋料理店だけでなく、庶民相手の一品洋食屋の開店が相次いで後、ようやく明治12年になって東京で初めて中国料理店が誕生した、とある。

 築地入舟町に開店した「永和斎がそれである。主は王楊斎。中国人だったわけだ。その後、明治16年に日本橋亀島町で「偕樂園」、翌17年に築地に「聚豊園」が創業。

 そのうち「偕樂園」については、当初会員制として始まってのち、その経営権を譲り受けた笹沼源吾の息子の源五郎と幼稚園、小学校の同級生だった谷崎潤一郎が「幼少時代」で記している、というエピードも紹介されている。
 あの『美食倶楽部』の原点はそんなところあったのでは、などと想像をたくましくされる話である。  

 話を戻して、明治の10年代に相次いで中国料理店が開店したものの、いずれも、数日前からの予約が必要で、値段はべらぼうに高く、庶民には縁遠いものだった。その予約制だったのは、材料の調達が困難だったというのが大きな理由だったのでは、と小菅さんは推測し、中国料理の華である魚翅、燕窩、干鮑、海参の入手がきわめて困難だったとふれている。 

 もっとも、日清、日露戦争を経て、中国本土との交流が盛んとなり、中国料理への関心が高まる。明治の終わりから大正にかけてのことで、家庭料理として紹介され始め、その紹介本がベストセラーを記録。そして、大正末期、東京には中国料理店は千軒に達するまでになっていた、という。

 さらに昭和の初期、相次いで食案内の本が出版されるようになるのだが、昭和4年には『支那料理通』なる本が登場。7年に出版された『二都喰べ歩き』でも中国料理店が多く紹介され、当時の日本の中国料理事情がうかがえる、という。

 残念なのは、店の存在こそ紹介されてはいても、どういった料理が出されていたのか、といった情報がないことだ。そう、メニューでもあれば、その内実が想像されるし、果たしてふかひれ料理がたべられていたのかどうか、ということも。

 谷崎潤一郎の『美食倶楽部』には、実際にはない幻の料理の数々が登場する。谷崎の想像の産物であるが、その料理名や料理の描写から、谷崎が想像をたくましくする発端となった料理が思い浮かぶ。

 そんな『美食倶楽部』における幻のメニューの発端となった料理の探求というのも、私には大いに関心があることで、それについては機会を改めて触れるつもりだ。

陸羽茶室の飲茶のメニュー


とーとつですが陸羽茶室の飲茶のメニュー。ざら半紙に赤字で印刷、というのは昔から。これは2003年10月11日から17までのもの。メニューは週替わりってことになってますが、確か新年と春節の時は、期間延長だったはず。これはテーブルの上に置いてあるが、昔はこれ以外にこれよりも版が大きい正方形のものも用意されていた。
 週替わりとはいっても、半分以上は、常に変わらない定番ものばかりだ。が、蝦餃にしろ、叉焼包にしろ、みかけは(古)ボケてても、素材吟味で、味わいも風味豊かである。
 煎粉菓連湯、など、揚げた粉菓をスープに浸して食べる、なんて点心があるのは陸羽だけだろう。
 鶏球大包も、陸羽のものはいたって上品で洗練されてる。

 上環の得雲、高陞、北角の十大、油麻地の豪華などなど、とおの昔になくなってしまった茶樓、茶室の鶏球大包は、赤ちゃんの頭ぐらいの大きさで、骨付きの鶏肉だけではなく、鹹蛋まで入っていた。肉体労働に従事するものにとって、格好の朝食だった、という話に納得したものである

2007/01/03

蟹黄魚翅撈飯(18)

 日本では「ふかひれの姿煮込み」といえば、たいていの場合「しょう油煮込み」を意味する。
 「ふかひれの姿煮のしょう油あんかけ」、もしくは「ふかひれの姿煮のしょう油味あんかけ」としている店もある。

 むろん、それ以外のものもある。東京の北京料理店の中には「奶湯」と呼ばれる白濁したスープを張った「砂鍋魚翅」を出している店がある。福臨門だけでなく澄まし仕立ての「清湯魚翅」を出している店もある。

 中国料理についてあれこれ疑問が思い浮かぶたび、ひもとくことが多いのが中山時子監修による「中国食文化事典」(角川書店)だ。昭和63年(1988年)に発刊されたもので、その内容は充実し、学ぶことも多い。なによりも便利この上ない辞典である。

 同書での「魚翅」の項目によれば、中国でふかひれを食べるようになった歴史は新しく「明代中期以後、料理法はわからないが、珍味として食されていたようである」とし、「清代入ってから普及し、道光年間(1821~1850)閩粤(現在の福建、広東省)から宮中に貢物として献上されてからおおいにもてはやされるようになったという」とある。

 ふかひれ料理の歴史が語られる時、引用されることが多いのが、清代初期、かの袁枚が『隋園食単』で記した2種のふかひれの料理だ。
 今手元にあるのは青木正児訳注による『隋園食単』(岩波文庫、80年)だが、それによれば「その一は好いハムと好い鶏との汁を用い、生の筍と氷砂糖一匁ばかりを加え、とろとろになるまで煮る」、
 「いま一つは鶏の汁ばかりを用い、細かく千切りした大根と細かく坼(さ)き砕いた魚翅と一緒に入れて、その中で混ぜ合せ、碗の表面に漂い浮かんで、どれが大根か、どれが魚翅か、食べる人には見分けがつかぬようにする」とある。
 さらに「ハムを用いる方は汁が少ないがよろしく、大根を用いる方は汁が多いがよろしく、すべてとろりと溶けて、柔らかく滑らかなのが佳い」、と。

 料理法が簡単に記されているだけで調味料の類の記述はないから、はたしてどのような味なのか厳密にはわからない。
 それでも「その一」の、ハム(火腿)と鶏のダシで煮込む、また「ハムを用いる方は汁が少ないがよろし」ということからすると、現在の姿煮に近いいものかもしれない。しょう油などの調味料を使用しないとなると「清湯魚翅」の原型と言うことになるが、おそらく、とろみがついていたのに違いない。そして、後者はふかひれスープの原型、ということになるだろうか。

 先の「中国食文化事典」の「魚翅」の項目の最後に中国各地のふかひれ料理の主要な名菜と、それがどの地方の料理なのかが紹介されている。

白扒排翅…鱶ひれのスープ蒸しとろみ煮。山東料理
扒海羊…鱶ひれと羊の内臓の五目煮。北京料理
濃燉鶏鮑翅…鱶ひれとひな鳥の姿蒸し煮。広東料理
蟹黄魚翅…鱶ひれと蟹の卵入りとろみ煮。広東料理
黄燜魚翅…鱶ひれの黄金煮。北京料理
白扒魚翅…鱶ひれの塩味煮込み。山東料理
高湯魚翅…鱶ひれのスープ。福建料理
砂鍋魚翅…鱶ひれの土鍋煮。北京料理
奶湯魚翅 鱶ひれの濁りスープ。山東料理
紅焼大明翅…鱶ひれの丸煮。広東料理
白汁老黄扒翅…鱶ひれの丸煮。上海料理
龍爪魚翅…鱶ひれ蒸しのわらび炒め敷き。広東料理
紅焼大群翅…大型の鱶ひれの丸煮込み。醤油あんかけ。広東料理
蟹黄生翅…鱶の丸びれの蟹の卵いりくずびき。広東料理
碗仔紅焼鮑翅…鰭の丸びれの醤油煮込み、めいめい盛り。広東料理
乾焼魚翅…鱶の丸びれのふくめ煮。四川料理
海紅魚翅…蟹の卵と紅油入り鱶のひれ。北京料理

(以上、無断引用のため削除の憂き目にあうかも!)

 紹介されている料理を見て気づくのは、広東料理、それに、北京料理とその源流のひとつである山東料理にふかひれの名菜が多いことだ。 もっとも、広東料理の名菜として紹介されているものの実質的な内容が似通ったものもある。紹介されている料理で、実際に私が食べたことがあるのは半分しかない。

 他に、先にも紹介してきた杭州料理の名菜で、後に上海料理にも組み込まれるようになったふかひれと火腿(中国ハム)を煮込んだ「火瞳魚翅」がある。そればかりか、上海料理にも、しょう油味で、香油で仕上げた独特の「紅焼魚翅」がある。

 四川にも「紅焼魚翅」の四川式のものがある。銀座にある「趙楊」で食べたことがあったのを思い出した。また、四川には鶏肉に豚骨や豚の脂をとろ火で煮込んで作る「白湯」を使ったふかひれ料理があるそうだが、私は食べたことがない。

 広東料理に組み込まれるが、潮州のふかひれ料理にも「紅焼」、「清湯」など、ふかひれの料理はいくつもあって、中には潮州名菜とされるもののある。
 土鍋煮込みの「魚翅煲」なども潮州独特のふかひれ料理だ。もともとは潮州系の中国人が多いタイで生まれ、それが潮州に逆輸入され、香港に紹介されていったのだ、という話を聞いたことがある。

 そして、忘れてはならないのが、広東料理、それも第二次世界大戦後、さらには、70年代に入って香港でもてはやされるようになった「清湯」系のふかひれ料理である

POST GUIDE TO HONG KONG RESTAURANT


香港の英字紙「South China Mornig Post」が84年に出版したレストランガイド。香港に通い始めた当時、先に紹介した「香港・台北いい店うまい店」以外に食のガイドブックはほとんどなかった。これ以前に「Eating out in Hong Kong by Marry Jackson and Harry Rolnick」(An Asia Magazine Publishing,79年)というのがあったが、欧米人が書いた欧米人向けのものだった。メニューの抜粋などもあって、今となっては貴重な資料でもある。
 次いで、84年に発刊されたこのガイドは、欧米人向けとはいえ、執筆者は中国系の香港人らしく、店や料理の紹介が充実していた。
 但し、メニューは全て英語によるものなので、解読に苦労した。
 「陸羽茶室」などの老舗に加え、「新同樂」や「福臨門」が紹介されている。Cantonese,Pekinese/Northern,Shanghainese,Schichuanといった料理店の区分がとても興味深かった。しかも、店の創業年も記されていたことから、香港の料理店の変遷、その歴史に俄然興味を覚えたものである。
 この後、タトラー誌によるBest of Hong Kongが登場する。
 私は中国語によるガイドが欲しく、その登場を待ったのだが、それは90年代に入るまでかなえられなかった。「飲食世界」、「飲食天地」という食の専門誌と、中国語の新聞の食のコラムやガイドから情報を得たものである。

蟹黄魚翅撈飯(17)

 「白灼中蝦」の「えび」、「豉汁炒帶子」の「たいらぎの貝柱」などの素材の良さ、調理の素晴らしさ。さらには「脆皮鶏」の旨さや鶏肉の味わい。そして、初めての福臨門での一番の驚きは「紅焼生翅」、ふかひれの醤油煮込みとの出会いだった。

 まずふかひれの形状そのものに驚いた。
 ふかひれといえば姿煮である。それまで私が知っていたのは、ふかひれの形をそのまま残し、調理した姿煮だ。しかし、福臨門の「紅焼生翅」は、ふかひれの姿を残してはいなかった。ふかひれの一本一本の繊維がばらばらの状態にほぐされていた。後に、ふかひれの繊維のことを翅針/翅絲と称すると知る。

 ふかひれの一本一本の翅針は、太く、長かった。太くて長い翅針が皿の中で波打っていたのである。
それらを箸先ででレンゲに集め、掬い取り、口に運んだ。
 唇や舌に触れる触感はつるんとしていて滑らかだ。噛み締めれば、ぷちんと弾ける噛み応えがある。それでいて、歯触りは、優しく、軟らかい。確かにふかひれの翅針を味わっているのだ、という実感を覚えた。

 それまで日本で食べてきたふかひれの姿煮とは、まったく異なるものだった。
 扇状のふかひれを箸先でさばき、細いフカヒレの翅針のかたまりを口に運ぶ。唇や舌触りは翅針が細く、たばねたような状態だから、ざらっとしている。それをざくっと噛み締める。とろみのついたダシがほとばしる。味が濃い。そんな味の濃さもふかひれの姿煮の特徴だった。
 福臨門の「紅焼生翅」は、そんな日本のしょうゆ煮込みのふかひれの姿煮とはまったく異なるものだった。

 ふかひれとともに味わうとろみのついたしょうゆ味のスープが旨い。とろみ、とはいっても、うっすらとしたものだ。ダシの味、旨味が、はっきりとわかる。醤油の味、濃いとろみのついた日本のふかひれの姿煮のしょうゆ煮込み。味付け、とろみ付けまで、日本のそれとはまったく違った。しかも、その旨さ、風味はいきなりガツンとくるのではなく、じわじわと押し寄せ、皿半ばほどになって旨味、風味がピークに達する。
 京都や大阪、関西の割烹料理の椀物にも通じる味わい、風味の豊かさに驚いた。洗練された気品のある、しかも毅然とした、味、風味があった。

2007/01/02

甘健成著「鏞樓甘饌録」


 これが甘健成氏の「鏞樓甘饌録」。
 四季折々の行事、それに即した料理、旬の素材やそれを使った料理の数々などのエピソード、外国への食旅行記なども掲載されている。
 「鏞記」といえばどのガイドブックを見ても「焼鵞」と「皮蛋」の話が中心だが、健成氏は伝統的な郷土料理、それも宴会料理から惣菜の類までを掘り起こし、再現し、さらにはその現代化を実践するなど、実に意欲的な人物である。

 先の「団年飯」のエピソードだが「春節」を前にした「除夜」の前後、一年の締めくくりとして従業員一同にねぎらいの宴がもたれるという。

宴席のメニューは以下の通りだ。

「一團和氣~紅焼元蹄」
「嘻哈大笑~乾煎蝦碌」
「發財好市~髪菜蠔豉」
「紅皮赤壮~脆皮焼肉」
「満地金銭~蠔油北菇」
「包羅萬有~紅扒鮑片」
「和氣生財~生魚菜湯」
「雄啼顯貴~蜆介肥雞」
「年年有餘~薑葱鯉魚」

 縁起を担いだ料理名、そして、その内容が紹介されている。いずれも広東地方の郷土料理で、しかも、伝統を継承する懐古的な内容なのが興味深い。

閑話休題~年越しと正月~

 暮れの大晦日に蕎麦を食べ、正月を迎えて雑煮とおせちを食べた。
 昨年の二月に母親が亡くなり、喪中ということもあって新年のご挨拶は遠慮したが、やはり年越しの蕎麦は欠かせず、元旦には雑煮を食べた。おせちはいつもより数を少なくした。

 私が年越しの蕎麦を食べるようになったは東京にきてから、それもここ15年ほどのことだ。80年から90年代半ばまでレコード大賞の審査員を務めていたから、大晦日はそれに借り出され蕎麦を食べる機会はなかった。子供の頃は神戸で、それまた、蕎麦には日頃から縁がなかった。

 その後、近所の知人宅の年越しの儀式に参加する機会を得て、それがずっと続いている。新年を迎える0時前に蕎麦を食べ始め、年を越えて食べ終わり、新年の挨拶をする。しかも、蕎麦を食べている間、無言のままで通し、誰とも会話を交わさない、というのが知人宅の年越し蕎麦の流儀である。

 雑煮は、元旦は澄まし仕立て。昆布と鰹節でとったダシに、具にする鶏肉をさっと酒で煮た後の煮汁も加える。鶏肉以外には、京人参、大根と小松菜かほうれん草。
 2日目は白味噌したてである。昆布と鰹節でとったダシ、それも鰹節の味を濃い目にしたダシだ。
 白味噌は堀河屋野村のもの。具は京人参、大根、里芋、三つ葉。

 餅は丸餅で、元旦の澄まし仕立ての時には別鍋で煮た煮餅。二日目の白味噌仕立ての時は焼餅。
 餅は埼玉の東松山で農業を営む加藤紀行さんが特別にこさえてくれたもの。
 加藤さんちはのし餅だそうだが、わざわざ丸餅にしてくれたもの。
 市販の機械打ちの餅とは違って杵打ちだけに、ぎしぎしと噛み応えのある素朴で実直な味わいのある餅である。

 中国のお正月は、よく知られているように「春節」がそれにあたる。農歴、日本でいう旧暦の1月1日で、今年は2月18日がその日にあたる。中国の年越しの儀式は、地方によって、さらには、家庭ごとにことなるようだが、一般に、粉食が中心の北方では「餃子」をふんだんに作って家族が一緒にそれを食べる。米食が中心の長江沿岸の中部地域や南方などでは「年糕」や「糯米糕」を作って食べる。前者は粳米、後者は糯米を粉にし、蒸して作る中国式の餅である。

 香港では、豪華なご馳走を用意して一年を締めくくる、という話を香港の知人、友人から聞かされてきた。「団年飯」がそれである。

 「除夜」、まさに大晦日に家族、親族が集まってごちそうを並べ、宴席を持つ。お金持ちの一家などでは「一品煲」を食べると聞いた。干鮑(干し鮑)、海参(なまこ)、花膠(魚の浮き袋)などの乾燥海鮮素材を煮合わせ、土鍋で供する豪華な料理である。
 一品煲については、各地にいろいろあって、しかも、いわくいわれもある。いずれ触れるつもりだ。

 広東系の人々では「紅焼元蹄」を主菜にすることが多いようだ。豚の皮付きの腿肉の固まりを丸ごと醤油で煮込んだ料理である。現在は元凱悦軒の料理長で私家房の「周家」を営む周中もそうだという。

 鵞鳥のローストの「焼鵞」で知られる「鏞記」の経営者のひとりである甘健成が、新聞に連載していた記事をまとめて出版した「鏞樓甘饌録」(経済日報新聞)にも、そんなエピソードが出てくる。

蟹黄魚翅撈飯(16)

 初めての福臨門で出会った料理は素晴らしかった。
 いや、正直に明かせば、その素晴らしさ、良さを充分に理解するには、それからしばし時間を要することになる。

 それよりもまず、驚きが先に立った。そのことに戸惑いも覚えた。それでいて、う~んとうなるものがあった。 私の知らなかった世界がそこにあった。

 その日、福臨門で食べた料理については先に触れてきたとおりだ。
 なんといっても、吟味された素材の質の良さと調理の素晴らしさに驚いた。眼を見張った。

 たとえば「白灼中蝦」。その料理と初めて出会ったのは「珍寳」でのことだが、失望したのは前述の通りだ。素材の蝦は悪く、調理も乱暴で、冷めきった状態のものだった。磯臭い匂いすらしたほどだ。

 次いで、改めて挑戦した「小杬公」で、「白灼中蝦」の良さを知った。素材の蝦は新鮮で、噛み締めるとプリっとした弾力がある。そして、甘い。老抽(色は濃いが、塩分の少ない中国醤油のひとつである)とダシ、新鮮な赤唐辛子の細切りを浮かばせたタレにほんの少しだけ身を浸すと、味が引き締まる。誰もが「白灼中蝦」に夢中になるのも納得した。

 福臨門の「白灼中蝦」は、素材も調理も「小杬公」のそれをしのいでいた。茹でた蝦が熱々のまま登場する。殻を剥こうにも、その熱さのため、手にした蝦をあわれて皿に戻すことにもなる。
 そして殻を剥いて食べた蝦の新鮮、茹で加減、さらにはタレの旨さに驚いた。

 タイラギの貝柱を豆豉ミソで炒めた「豉汁炒帶子」の素材である「帶子」、その調理も素晴らしかった。 それまで豆豉ミソで炒めた料理は「小杬公」で、「帶子」ではなく「まて貝」で食べたことがある。後に「小杬公」で同じ「豉汁炒帶子」を食べたが、やはり、福臨門のそれとは違った。 

 もちろん「小杬公菜館」の魚介の素材は新鮮で、充分に吟味されている。海鮮料理を看板にする料理店の中では、言うまでもなくそれまで、また、それ以後、私が出向いた料理店の中では、最も優れた店のひとつだった。物によっては福臨門をしのぐものにも出会ったことすらある。おまけに、値段もそれなりの高級店である。

 そうした素材の新鮮さ、吟味はともかく、調理についていえば、「小杬公」と「福臨門」は明らかに違っていた。

 たとえば「白灼蝦」、それに豆豉ミソをを使った「豉汁」、それに唐辛子を加えた「豉椒」、あるいはねぎと生姜の「姜葱」などの「焗」の調理などを比べればその違いは明らかだった。

 「小杬公」のそれは、豪快でワイルドで力強い。野趣、野生味に溢れ、いきなりガツンとくるような旨さがある。
 一方の「福臨門」は、海鮮素材を生かし、「料理」したものだった。豆豉ミソをを使った「豉汁」など、味が濃く、旨味が直接的に訴えかけてくる調味料を使い、野趣、野生味をいかしながら、そこには「料理」としての洗練や気品があった。

 そして、初めての福臨門で思わず「旨い!」と唸ったのは鶏の丸揚げ、一般には「炸子鶏」として知られている「脆皮鶏」だった。

 ぱり、さくっとした皮の旨さ。噛み締めるとすっと歯が入る柔らかさ、しっとりした肉質。それでいてしなやかな弾力がある。

 「脆皮鶏」は、鶏肉の旨さを教えてくれる見事な料理だった。