2007/01/02

蟹黄魚翅撈飯(16)

 初めての福臨門で出会った料理は素晴らしかった。
 いや、正直に明かせば、その素晴らしさ、良さを充分に理解するには、それからしばし時間を要することになる。

 それよりもまず、驚きが先に立った。そのことに戸惑いも覚えた。それでいて、う~んとうなるものがあった。 私の知らなかった世界がそこにあった。

 その日、福臨門で食べた料理については先に触れてきたとおりだ。
 なんといっても、吟味された素材の質の良さと調理の素晴らしさに驚いた。眼を見張った。

 たとえば「白灼中蝦」。その料理と初めて出会ったのは「珍寳」でのことだが、失望したのは前述の通りだ。素材の蝦は悪く、調理も乱暴で、冷めきった状態のものだった。磯臭い匂いすらしたほどだ。

 次いで、改めて挑戦した「小杬公」で、「白灼中蝦」の良さを知った。素材の蝦は新鮮で、噛み締めるとプリっとした弾力がある。そして、甘い。老抽(色は濃いが、塩分の少ない中国醤油のひとつである)とダシ、新鮮な赤唐辛子の細切りを浮かばせたタレにほんの少しだけ身を浸すと、味が引き締まる。誰もが「白灼中蝦」に夢中になるのも納得した。

 福臨門の「白灼中蝦」は、素材も調理も「小杬公」のそれをしのいでいた。茹でた蝦が熱々のまま登場する。殻を剥こうにも、その熱さのため、手にした蝦をあわれて皿に戻すことにもなる。
 そして殻を剥いて食べた蝦の新鮮、茹で加減、さらにはタレの旨さに驚いた。

 タイラギの貝柱を豆豉ミソで炒めた「豉汁炒帶子」の素材である「帶子」、その調理も素晴らしかった。 それまで豆豉ミソで炒めた料理は「小杬公」で、「帶子」ではなく「まて貝」で食べたことがある。後に「小杬公」で同じ「豉汁炒帶子」を食べたが、やはり、福臨門のそれとは違った。 

 もちろん「小杬公菜館」の魚介の素材は新鮮で、充分に吟味されている。海鮮料理を看板にする料理店の中では、言うまでもなくそれまで、また、それ以後、私が出向いた料理店の中では、最も優れた店のひとつだった。物によっては福臨門をしのぐものにも出会ったことすらある。おまけに、値段もそれなりの高級店である。

 そうした素材の新鮮さ、吟味はともかく、調理についていえば、「小杬公」と「福臨門」は明らかに違っていた。

 たとえば「白灼蝦」、それに豆豉ミソをを使った「豉汁」、それに唐辛子を加えた「豉椒」、あるいはねぎと生姜の「姜葱」などの「焗」の調理などを比べればその違いは明らかだった。

 「小杬公」のそれは、豪快でワイルドで力強い。野趣、野生味に溢れ、いきなりガツンとくるような旨さがある。
 一方の「福臨門」は、海鮮素材を生かし、「料理」したものだった。豆豉ミソをを使った「豉汁」など、味が濃く、旨味が直接的に訴えかけてくる調味料を使い、野趣、野生味をいかしながら、そこには「料理」としての洗練や気品があった。

 そして、初めての福臨門で思わず「旨い!」と唸ったのは鶏の丸揚げ、一般には「炸子鶏」として知られている「脆皮鶏」だった。

 ぱり、さくっとした皮の旨さ。噛み締めるとすっと歯が入る柔らかさ、しっとりした肉質。それでいてしなやかな弾力がある。

 「脆皮鶏」は、鶏肉の旨さを教えてくれる見事な料理だった。