2007/01/05

蟹黄魚翅撈飯(19)

 日本で中国料理のふかひれの料理が、いつ、どのような形で紹介され、それがいったいどんなふかひれ料理だったのか。また、どうやって広まっていったのか、大いに興味を覚えるところだ。

 「それは難しい話だわ。だいたい、日本での中国料理の歴史、変遷を調べようにも、資料は限られているし、その実態はわかりにくいからね。その、断片がわかるだけだから」と、おっしゃったのは、今は亡き小菅桂子さんである。
 食文化研究で知られ「にっぽんラーメン物語」や「にっぽん洋食物語大全」はじめ、数多くの著作がある。小菅さんとは、かつて私がキャスターを務めたNHK-TVの「男の食彩」で、上野毛の「吉華」を紹介した際、ゲストとして迎えたのをきっかけに、何度かお話する機会を得た。2000年度の芸術選奨の審査会で久々にお目にかかり、長話をした時のことである。

 「にっぽんラーメン物語」の第9話「にっぽん中国料理史」は、小菅さんが明治の文明開化を迎えて以後の日本のおける中国料理の登場やその変遷をまとめたものだ。

 文明開化、とは西洋にならえを意味し、西洋文化一辺倒の時代だった。それも、政府高官御用達の高級西洋料理店だけでなく、庶民相手の一品洋食屋の開店が相次いで後、ようやく明治12年になって東京で初めて中国料理店が誕生した、とある。

 築地入舟町に開店した「永和斎がそれである。主は王楊斎。中国人だったわけだ。その後、明治16年に日本橋亀島町で「偕樂園」、翌17年に築地に「聚豊園」が創業。

 そのうち「偕樂園」については、当初会員制として始まってのち、その経営権を譲り受けた笹沼源吾の息子の源五郎と幼稚園、小学校の同級生だった谷崎潤一郎が「幼少時代」で記している、というエピードも紹介されている。
 あの『美食倶楽部』の原点はそんなところあったのでは、などと想像をたくましくされる話である。  

 話を戻して、明治の10年代に相次いで中国料理店が開店したものの、いずれも、数日前からの予約が必要で、値段はべらぼうに高く、庶民には縁遠いものだった。その予約制だったのは、材料の調達が困難だったというのが大きな理由だったのでは、と小菅さんは推測し、中国料理の華である魚翅、燕窩、干鮑、海参の入手がきわめて困難だったとふれている。 

 もっとも、日清、日露戦争を経て、中国本土との交流が盛んとなり、中国料理への関心が高まる。明治の終わりから大正にかけてのことで、家庭料理として紹介され始め、その紹介本がベストセラーを記録。そして、大正末期、東京には中国料理店は千軒に達するまでになっていた、という。

 さらに昭和の初期、相次いで食案内の本が出版されるようになるのだが、昭和4年には『支那料理通』なる本が登場。7年に出版された『二都喰べ歩き』でも中国料理店が多く紹介され、当時の日本の中国料理事情がうかがえる、という。

 残念なのは、店の存在こそ紹介されてはいても、どういった料理が出されていたのか、といった情報がないことだ。そう、メニューでもあれば、その内実が想像されるし、果たしてふかひれ料理がたべられていたのかどうか、ということも。

 谷崎潤一郎の『美食倶楽部』には、実際にはない幻の料理の数々が登場する。谷崎の想像の産物であるが、その料理名や料理の描写から、谷崎が想像をたくましくする発端となった料理が思い浮かぶ。

 そんな『美食倶楽部』における幻のメニューの発端となった料理の探求というのも、私には大いに関心があることで、それについては機会を改めて触れるつもりだ。