2008/04/02

ヘイフンテラスの謎と不思議の16

 「話を引っ張るな!」、「黒服の女史はどうした?」 
 と、黒服の女史の復活、リクエストが相次いでいますが、今回も話の成り行きでちょい待ちです。

 さて、周さんが「璃宮」、譚さんが「廣州」で、それぞれ香港スタイルを取り入れていた前後、東京のホテルで広東料理を看板にする中国料理店も香港的な色彩を濃くしていました。
 それが顕著になりはじめたのは、80年代後半から90年代にかけて。ことに90年代に入って顕著になりました。

 いつだったか、ホテル・オークラの「桃花林」が、香港のマンダリン・ホテルの「文華」から料理人、サービスを呼んでフェアーを実施、なんてのもありました。
 そん時、驚いたのは、料理の値段の高さ。メニューに「例湯」がありました。値段は普通の店なら一品料理ほど。てっきり「窩」、つまりひと土鍋分ほどかと思ったところ、なんと小碗に一杯。1人用のものでした。
 それからもフェアーの他の料理の値段、推して知れるはず。収穫は、後に「文華」から「嘉麟樓」にヘッドハンティングされたマネージャーのリンゴ・魯、料理人の黎さん(という名前だったはず)に知り合えたこと。

  その黎さん、八王子の「海苑」の総料理長に招かれ、次いで、渋谷に出店した「海苑」の総料理長に。黎さんをおっかけて、両店にしばしばでかけたものです。
 八王子時代には、日本ではなかお目にかかれない「小菜」の類も提供。が、素材の調達に苦労してか「文華」時代ほどの力量は発揮できず。

 渋谷の店に移ってから、海鮮料理などは充実していたものの、季節素材を使った「小菜」などは、香港と同じ素材の確保が難しく、苦労していた様子。
 そうなんです。料理人がいくら名店の出身で、技量があったとしても、本領が発揮出来るのは、素材の調達や確保の決定権を握る経営者の度量があってこそ。そのうち、黎さん、帰国しちゃいました。

 もっとも、ホテル・オークラの「桃花林」の普段の料理、フェアーが終わったら、元通り。
 炒め物にしろ、煮込み物にしろ広東料理の老舗としての評価もなる程と思えるほどクラシック。
 というより、どの料理もたいてぶ厚いとろみがたっぷりで、旧態依然としたまま。日本に定着した広東料理のまさに王道といった印象でした。

 その「桃花林」と似たような傾向だと聞いていた全日空ホテルの「花梨」。
 実際に出かけてみると、風聞とは違いました。
 香港の郷土料理だけでなく、東南アジアの広東料理店でお目にかかるような、広東料理を下敷きに東南アジアの食材、風味を取り入れたフュージョン的な新趣向の料理にも出会いました。香港の郷土料理、味付け、調理など、香港の広東料理を反映したものでした。

 料理は上品で洗練されていて、穏やかで、優しい味付け。落ち着いた内装同様、香港の一流ホテルの中国料理店に通じるものがあったのが印象的。
 しかし、香港の料理店との関わり、香港の料理人にがやってきていたのかどうか、その詳細を知るには至りませんでした。
 そんなことを思い出し、今、書きながら、「ヘイフンテラス」の料理、「花梨」に通じるものもありかも、と思い当たったりして。

 香港では80年代はじめからホテルの中国料理店が一挙に開花。
 今はなきリージェント・ホテルの「麗晶軒」を筆頭に、ホンコン・ホテルに「麒麟金閣」、ペニンシュラ・ホテルに「嘉麟樓」、ハイヤット・リージェンシー・ホテルに「凱悦軒」、マンダリン・ホテルの「文華」も改装。グランド・ハイヤットに「港湾一号」、アイランド・シャングリラに「夏宮」、コンラッド・ホテルの「金葉庭」などが開店し、話題を呼んだことがあります。

 いずれも広東料理を看板にしながら、北京、四川など中国各地の地方料理も取り入れ、独自のアレンジが施してありました。ホテルの中国料理店ならではのもの。特徴のひとつに挙げられます。
 東京のホテルの中国料理店も、上海なり、広東なりをメインにしながら、地方色取り入れた内容構成。ですが、広東料理を看板にする店では、次第に香港色が濃くなっていきました。
 特に飲茶の点心が徐々に充実。それに比べて「小菜」などはその数も限られていました。

 もっとも、香港のホテルの中国料理店がそうなように、東京の一流どころ、また、外資系のホテルの中国料理店は、落ち着いた雰囲気、上品で優しく、時に洗練された料理を供するようになるなど、目覚しく変化していった時代。ホテル料理としての品格がありました。

 街中の料理店などでも香港から招聘された料理人が目立つようになりました。
 中でも興味を持ったのは、「Xing Fu」の総料理長の黎志健さん。
 最初は原宿、後、銀座に移転した薬膳料理の店の料理長ですが、香港出身で香港の料理店で修行してきたこともあって広東地方の郷土料理に精通。
 いかにも薬膳的な料理だけでなく、季節に応じて滋養供給や体調を整えるために作るスープをはじめ、広東人の日常の生活に根ざしたメニューがあり、また、その種の料理を頼めば、気取りのないお惣菜的な料理に出会えたものです。

 赤阪の「櫻花亭」も、黎さんの紹介で料理人を香港から招聘していたとおかみさんから聞いたことがあります。穏やかで優しい味付けが特徴で、香港的。香港体験のある人なら納得の味ですが、体験のない人にとってはいささか刺激がなさ過ぎたようで。
 やっぱり、中国料理、中華料理というのは、こってり、濃い味、のイメージが濃厚ですから。

 同時期、一般にはあまり知られていませんでしたが、香港の料理界の動向を察知し、人材を派遣していたのが大阪の辻調理師専門学校です。
 かつて松本秀夫先生が香港の「樂宮樓」で学んで以来、市川友茂、吉岡勝美先生が「敬賓酒家」に。
 同店は香港の食の歴史に残る名料理人で、「陸羽茶室」、ハッピーバレーの香港ジョッキー・クラブに迎えられて話題を呼び、後、独立した梁敬師傳が総料理長を務めていた名店です。

 その後、河合鉱三先生が「文華」、再び吉岡勝美先生がフラマー・ホテルの「富麗華」、堀内眞二先生が「麒麟閣」に、といった経緯があります。
 吉岡先生、河合先生は「どっちの料理ショー」などのTVの料理番組でおなじみのはず。ことに吉岡先生の「よくわかる中国料理基礎の基礎」は、必見の著作。

 そればかりか「文華」、「金葉庭」、「采蝶軒」を経て、香港ジョッキー・クラブの総料理長になった林勝倫さんや、周中さんを同校に招聘。
 といったように同校と香港の料理界との関わりは深い。
 その成果は、同校の授業で反映されるだけでなく、辻静雄校長が主宰する食事会で披露されていました。

 そして、周さんの跡を継いで謝華顕さんが総料理長になってからの「聘珍樓」が、俄然面白くなったのも印象的でした。
 謝さん、それ以前、80年に日比谷の「聘珍樓」の総料理長に就任。 もともとは広東省の江門の出身で、13歳から香港の海鮮料理店で修行し、22歳で翠園本店のチーフに抜擢。88年には香港に進出した「聘珍樓」の総監督に就任、といった経歴が聘珍樓のサイトに紹介されてます。

  謝華顕さんが総料理長を務めるようになって以来、「聘珍樓」は料理全体、香港色が濃くなり、「小菜」類も徐々に充実。それまで謝華顕の料理を目当てに日比谷の「聘珍樓」に出かけていたましたが、謝さんが総料理長になって以来、紀尾井タワーにあった頃の「聘珍樓」に足を向けたものです。渋谷の「聘珍樓」などでも、季節メニューが充実するようになりました。

 もっとも、謝さんが総料理長となって「聘珍樓」で目立って多くなった香港スタイルの料理、ことに「小菜」の類は、当時の香港の最新の食事情からすれば、いささかオールド・ファッション。言わば香港ローカル的なもので、田舎っぽく、泥臭いものもありました。もっとも、私にはそれが面白く、楽しみでした。

 その理由、謝さんはもともとは「翠園」に在籍、という経歴が物語っています。
 70年代には最新の流行だった「翠園」の料理も、80年代半ばには香港で広く一般化し、香港の中流階級の人々が客層の主流を占め、日常的な店として定着。「小菜」で一世を風靡した「翠亨邨」なども同様に、料理も目新しいものではなくなり、客層も変化していました。

 88年、「聘珍樓」は香港に進出。まだ周さんが総料理長を務めていた頃です。その際、香港店の総料理長を務めたのが謝さんだった、とは「聘珍樓」のサイトで知ったことです。そして、マネージャーは「麒麟金閣」からヘッド・ハンティング。ということからも、実に意欲的だったことがわかります。

 当時、香港では高級ホテルの中国料理店の内装、サービス、何よりも料理内容が洗練されていったと同時に、街中にも同様の姿勢、傾向の店が相次いで誕生。 そもそものきっかけは、かつて青山にあった「ダイニーズ・テーブル」をヒントに、西洋式のサービスと斬新な料理内容を打ち出した「麒麟閣」が発端で、以後、同種の店がいくつも開店しました。
 「聘珍樓」も、そうした最新のトレンドを反映した店として地元で話題になりました。

 私が興味を持ったのは、洒落た内装やサービスなどより、料理内容。
 「新派広東」の系列の中でも、ネオ・クラシック派に属する店、と思えたからです。
 大昔の拙著「香港的達人」でも紹介したように、広東地方の伝統的な郷土料理、広東省南部、珠江沿岸地域の料理を下敷きに、素材を改めて現代化し、プレゼンテーションも工夫した料理に出会えたのが面白く、興味深かった。
 ここ最近同様、あの時期もまた郷土料理の現代化、というのがトレンド、テーマとなり、ホテルの中国料理店以上に、街中の新しい店がその種の料理に積極的に取り組んでいたものです。

 そして、東京のペンシュラ・ホテルの「ヘイフンテラス」の総料理長に迎えられた鄧志強さん。
 「嘉麟樓」の前には、香港の「聘珍樓」に長く在籍。なんてことをネットで知りました。
 ですが、私、そんなことほとんど気に留めてもいませんでした。
 「ヘイフンテラス」で、実際に食事をするまでは!

 さて、画像。やっぱり「あのう、お客様~」と料理撮影禁止ですから。
 う~ん、どうしよう。
 で、探し出したのは、80年代、香港のホテルの中国料理店で花開いた「新派広東」、ネオ・クラシック派のスタイルを打ち出した「麗晶軒」のスタイルを踏襲し、それを再び甦らせ、同時に、より革新的かつ意欲的な傾向の強い料理を相次いで生んでいるフォーシーズンズ・ホテルの「龍景軒」の料理から。

 「雪花蟹肉魚翅羹」。「豆腐花」を下に敷き、蟹肉、さらにふかひれを載せて、葛引きの餡で仕上た羹です。 かつて「麗晶酒店」で張錦全さんのもと、「麗晶軒」の総料理長を務めていた陳恩徳さんが、スタッフととも考案したもの。
 「龍景軒」には他にも斬新な内容の料理が各種あります。