2007/03/06

閑話休題~マカオ・香港の旅(15)

 「麵」といえば、日本では中国料理、あるいはラーメン屋の「麵」を指し、意味する。「中華麵」、と口にするは少ないにしても、その認識はあるはずだ。中国料理、ラーメン屋の「麵」である。そうした認識、イメージが浸透してるせいか、それがものごとの基準になっていたりもする。

 他方、「米粉/ビーフン」については、その存在や、米が原料であることも認知されている。そして「河粉」。原料は「米粉」と同じく米である。その製造工程が「ビーフン」とはいささか異なるが、簡単に幅広ビーフンと説明するのがわかりやすいのではないか。私はそう考えるのだが、現実にはそうではないらしい。

 もっとも「ビーフン」というのは、厳密には台湾語(閩南語)による表現で、中国では北京語で「ミーフェン」、香港では広東語で「マイファン」と称される。それからすると「幅広ビーフン」という表現もいささか強引かもしれない。単にその形状を捉えて「幅広のひもかわ状のもの」というだけでは、原料が不明で、よりわかりずらい。それなら、前述の通り、日本ではすでに「ビーフン」としてその存在、形態、さらには原料が米であると知られていることからすれば、「幅広ビーフン」と表現するのが簡単かつ明瞭に思えるのだ。

 それより、日本では小麦粉だけでなく、そば、粟、稗などの穀物類、根菜類、豆類などを原料とし、主に細長い形状のものは広義に「麵類」としてくくられている。そこに米を素材とした「ビーフン」が含まれている、ということもある。ともあれ、素材ではなく形状をもとに語られる総称である。それが、誤解を招く要因になっているようだ。


 中国で「麵」といえば「小麦」を意味する。日本で「麵」と語られるものについては「麵」の加工状態を示した「麵条」と表現するのが一般的だ。さらに「米」を素材にした加工製品を意味するのが「粉」である。さらに「小麦」は「小麦」、「米」は「米」であり、原料によって加工製品は区別されている。

  中国で米を原料にした加工製品だが、ほぼ主要なものとして「米粉」、「河粉」、「瀬粉」、「米線」がある。その歴史を香港グーグルなどで調べるのも面白い。

 曰く「五胡亂華」の時代、黄河流域から南方に逃れた人々が、かつて故郷で食べた「麵」から作った「麵条」に思いを馳せ、「米」でそれを再現したのがそもそもの起源だと記されている。 当初「米条」と称されていた、というのも興味深い。 ことに中国南部の広東省を中心に「米」を「麵条」のように加工する工夫、技術が考案され、結果、生み出されたのが「米粉」、「河粉」、「瀬粉」だというのだ。

 「米粉」は、福建省を経由して台湾にそれが伝来し、独自のものが生まれた。それがやがて「新竹米粉」を生み出す。「河粉」は19世紀半ばに広州で、「瀬粉」はほぼ同じ時期、広東省南部の中山で生まれた、という。さらに、前述してきたように広西省の桂林の「米条」にも何種類かある。

 「米線」は雲南省の産物だ。雲南省は、日本の米、そして、寿司のルーツはそこにありと語られるところだ。それ以外にも中国南方の各地域には「米」を「米条」に加工したものがある。 


 そういえば、日本で「ビーフン」といえば、最もなじみ深いのが台湾産の新竹ビーフンだ。
 ところが、香港の「米粉」は、各種ある。つまり、その細さがである。
 炒め物などに使われるのは、台湾のそれと同様に極細のもの。それが汁物なると、極細のものだけでなく、タイの「センレック」、ベトナムの「フォー」に類似した細めのものもある。製造工程が異なるからだろう。台湾の新竹ビーフンが乾燥させたものであるのに対し、生のままの「米粉」を使うことがあるからだ。

 極細のものということになると「粉絲」、はるさめがある。炒め物、汁物にも使われる。その「粉絲」だが「粉」と表記されてはいるが、原料は緑豆のでんぷんなのだ。というから、また、話がややこしくなるか。

 台湾の新竹ビーフンに似た「米粉」の類似品にタイの「センミー」があるが、「新竹米粉」などと同じか、もしくはそれよりも細い。
 さらに、タイには香港や広州の「河粉」に幅、厚み、触感が似た「センヤイ」がある。
 
 また、タイには「センケチャッップ」という角状のものがある。 ベトナムには生春巻きに使うバイン・チャン、ライスペイパーがある。
 そして、広東省南部、広州、さらには香港には「腸粉」がある。「河粉」、「米粉」とともに親しまれているもので、磨った米を拡げて蒸し、それを巻き上げたものだ。

 「ビーフン」が日本に紹介されたのは、どうやら戦後のことだったようだ。台湾からの輸入品がその最初だったらしい。「ビーフン」という台湾語(閩南語)がそれを物語っている。

 それにしても、米の生産国であり、米を主食のひとつとする日本で、どうして米を素材に、主食にもなりうる「米粉/ビーフン」や、同類のものが生まれなかったのか。もっとも、日本で、粳米にしろ、糯米にしろ、それを粉にして使われなかったわけではない。それは主にお菓子作りの原料となってきた。

 実は日本で米が一般家庭の主食として行き渡り、主食としての位置を占めるようになったのは、戦後、それもかなりたってからのことだ。それまで稲作が可能な地域は限られていた。そんな歴史的な事実を知れば納得のいく話だ。

  そういえば、日本でのパン食の普及は、戦後、日本がアメリカに占領され、アメリカの輸出政策の一環としてアメリカ産の小麦の輸入が実施されたことに関わる、というのはこれまでにも語られてきたことだが、日本におけるラーメンの普及の背景を語る際にも、その関係を無視できないのではないか、などとも思うのである。 

2007/03/04

閑話休題~白い粉!






 
 
 埼玉の東松山の農業、加藤紀行さんから「雨水」の収穫が届いた。「根三つ葉」である。
 爽やかで淡彩な葉の緑。すくすく真っ直ぐに育った太い根元の濃白。根こそぎもぎ取った時の冷ややかな感触が思い浮かぶぐらい瑞々しい。
 
 山出しの昆布を一晩寝かせ、枕崎のかつおを削ってだしをとり、三陸の生牡蠣を放り込んで、薄口醬油で味をつけて、お澄ましに。根三つ葉の葉の清々しい青さ、軸のさくさく、しゃりしゃりの舌触り、歯触り。ほろ苦さと香りがいい。
 根三つ葉の根は、洗って、きんぴらに。見かけはごぼう。だが、ごぼうのような強いえぐ味はない。甘味と、かすかなほろ苦さが入り混じった、素朴で実直、清廉な風味がある。冷たい土に潜り込んで根を張るはつらつとした青さである。いずれも、カミさんが作りました。
 そして、根三つ葉とともに、ビニール袋入りの「白い粉」。
 やばい!何!これ?
 電話して尋ねたら、なんと、米の粉。
 ここんとこ、「米粉(ビーフン)」話が続いていたので、「米粉」のおすそ分け、とのこと。
 それにしても、一体どうしたものか。
 早速、香港グーグルで「河粉」、「米粉」の製造方法を検索。が、実践に及ぶには手間隙かかりそうだ。まずは「腸粉」を試しに作るつもりだが、「これって、粉蒸牛肉に使えるじゃない!」と、ウチのかみさん。
 うん、それもいい。そういえば、雲南料理に「米粉」を使う料理があったはず。「米粉」について再勉強と相成りました。

2007/03/03

蟹黄魚翅撈飯(35)

 翌朝、早くに起きて早朝の飲茶を取材した。
 最初に出かけたのは地元の観光局の人に薦められた「北園酒家」だ。店内を見回り、テーブルの上の飲茶の点心をのぞいてみると、なるほど、美味しそうだ。

 かつて広州を訪れた際、「陶々居」など、飲茶の点心で評判だという店を何軒かはしごしたことがある。が、注文した点心は、調理してから時間が経ったものだったり、味、風味の乏しいものだったことに失望した苦い思い出がある。
 「北園酒家」の賑わい、活気、いくつか試した点心は、かつての印象を見事に打ち消してくれるものだった。もっとも、目当ては「泮渓酒家」。茘湾湖のほとりの広大な敷地にいくつもの館があって、屋外での飲茶を楽しめるからである。

 実は「泮渓酒家」も、初めて訪れた80年代の始め頃、伝統的な名品で構成された飲茶の点心を注文したものの、出来立てではなく、取り置きのものばかりで、失望したこともある。それを帳消しにしてくれたのは、湖のほとりの館の風情、佇まいだ。飲茶の点心はともかく、お茶が旨かった。

 はたせるかな「泮渓酒家」も、活気、賑わいにあふれていた。注文した点心は、どれもが熱々で、風味豊かなものだった。しかも、屋外で飲茶を楽しんだだけに、その味わいは格別だった。 その時、撮影のため、ということもあったが、注文したのは以下の点心である

 「蠔油叉焼包」、 
 「腐皮巻」、
 「牛肉燒賣」、
 「蘿葡糕」、
 「叉焼腸粉」、
 「柳葉鮮蝦巻」、
 「百花巻」、
 「蝦餃」、
 「糯米鶏」、
 「芋角」、
 「生肉包」、
 「蟹肉干蒸燒賣」、
 「春巻」、
 「清蒸牛肉球」、
 「潮州粉果」、
 「炆牛子筋」、
 「蛋撻」

 その数に我ながら驚く。それより、そのメニューからすれば香港の飲茶の点心と変わりないことが一目瞭然だ。 というよりも、香港の飲茶の点心のルーツは広州にあるのだから、メニューが同じなのも当然である。それも「泮渓酒家」の点心は、香港の点心ほど味が濃くなく清淡だ。それでいて、しっかりとした味わい、風味がある。上品で洗練されている。香港の「陸羽茶室」の点心に通じるところがあった。

 もっとも、「陸羽」の飲茶の点心の基本は本土の広州のそれを踏襲したものだが、やはり香港のそれである。広州のそれを踏襲しながら、香港を背景に育まれ、独自性ある様式を確立してきた。広州の「泮渓酒家」の飲茶の点心が「陸羽」と違うのは、どこかひなびた趣があることだ。

 ひなびた味、趣、というのは私が旅した中国各地の高級料理店で体験し、感じたそれに近い。たとえば、揚州の「富春茶社」の点心。今はなくなくなってしまったが、上海にあった揚州料理の店の朝の飲茶の点心もそうだった。

 上海で現存するものでは豫園の「緑波廊」がそれに近いが、幾分か素朴で、上品さ、洗練にはかけている。
 ちなみに「緑波廊」で注目すべきは淮揚料理、もしくは淮揚料理を下敷きにした料理の数々に出会えることだ。

 上海はこの10年程の間に、街のいたるところで再開発が行われ、淮揚料理を看板にする「揚州飯店」も、場所が変わると同時に営業方針を改め、料理内容も変化してしまった。そんなことから豫園の「緑波廊」は貴重な存在となってしまったが、飛び切りの店、というわけでもない。

 飛び切りの料理、しかも淮揚のそれに出会うには、料理の選択、吟味、それにもまして特別なチャンネルを必要とする、という事情は、昔のままである。


 ひなびた味の良さというのは、日本でも出会うことがある。たとえば松江の「風月堂」の「黒小倉」などその最たるものだ。茶の文化の伝統を守り続けてきた街の歴史に支えられた老舗の味、趣であり、それは中国も日本も変わらない。

 ともあれ、「泮渓酒家」の点心は素晴らしかった。

 そして、当日、昼過ぎに訪れたのが「沙河大飯店」。観光局の人がようやく取材にこぎつけてくれたものだった。撮影し、食べたのは以下の通りだ。

 「干炒牛河」(細切り牛肉、黄韮、もやし炒め)
 「西檸尤絲河」(いか、白瓜、糖姜、胡瓜、パパイヤ、檸檬(中国檸檬)などの細切り炒め)
 「辣三絲」(にんじん、ピーマン、干椎茸の細切り辛味(タイの芥醬)炒め)
 「涼瓜鶏茸河」(苦瓜と鶏のひき肉炒め)
 「海鮮河粉盞」(セロリ、カシューナッツ、にんじん、蟹肉、貝柱の炒め)
 「五彩河粉球」(ほうれん草、にんじん、豚肉、干椎茸、蝦、筍のみじん切り炒め)
 「甘蔗麻糖河粉」(ごまだれ、砂糖、橙花酒風味のあえもの)


 最後の「甘蔗麻糖河粉」は涼拌甜品、あえもののデザート。
 「干炒牛河」は「沙河粉」の定番的な料理。香港だと老抽(たまり醬油)だが、生抽(醬油)味で、しかも、とろみあんかけによるものだった。

 「西檸尤絲河」はその時食べた料理の中では抜群に旨く、最も印象に残ったものだ。いか、それに白瓜をはじめとする五種の瓜(その中には地元産のパパイヤも含まれていた)の細切り、中国檸檬の酸味が味の要、という印象で、甘酸っぱく、すっきりとした清淡な味、風味だった。

 「辣三絲」は、辛味が利いていて、メリハリが利いているものの、やはり、どこか寝ぼけた感じ。チリ・ソースがタイ産のもの、というのが意外だった。

 「涼瓜鶏茸河」は、生粉によるとろみがしっかりついていて滑らかな舌触り。上品で洗練されていながら、どこかと寝ぼけたような印象。中国本土ならではの味、風味だ。

 「海鮮河粉盞」は、ひと皿に4個、まとめて盛られていた。「五彩河粉球」は、ぱりとした舌触り、さくっとした歯触りがいいさっぱりとした一品だった。


 様々な料理方法、趣向の料理を味わったが、印象に残ったの野菜をふんだんにつかい、それぞれの持ち味を生かしていること。野菜の自然で素朴な甘味が効果的につかわれていたこと。それに、野菜の使い方、ことに切り方をはじめ、下拵えに工夫があり、滑らかだったり、さくさく感を覚えさせるなど、触感を重視していたこと。


 それにもまして「沙河粉」の触感と味わいに打ちのめされた。それまで食べてきた「河粉」とは異なるものだったからである。半透明で、滑らかな舌触りだが、むちっとした歯応えがある。粘りのある腰がある。


 撮影後、なんとか店の人から聞きだした「沙河粉」の特徴は「薄而透明、硬而爽滑」にあるという。米を水に浸し、しばらく置いて、水を捨て、何回も磨き、再び水に溶かして鍋にかけ、蒸しあげるという。米の吟味もさることながら、水の吟味が肝心で、「白雲山」の泉水を使っている、とのことだった。

 店頭に乾燥した「沙河粉」が売られていた。土産に買ったことはいうまでもない。その戻し方に工夫を要したが、旨かった。
 

2007/02/28

蟹黄魚翅撈飯(34)

 桂林から広州に戻ってすぐさま、夜遅くまで開いているというので西貢に出向いた。海鮮料理を看板にする店が並んでいるところである。

 海鮮料理の店、料理を紹介してほしいとは編集部の意向のひとつでもあったから、前述の通り、広州に到着早々、地元の観光局の方の案内で目ぼしい店をチェックしていた。まず、日本の雑誌で紹介されている店は避けたくてパス。他に色々な店に案内されたが、今ひとつノレない。触手をそそるものがない。


 実際に調理の技術、味を見るには、試食しかないが、それ以前の段階でセンサーが働いて、潔しとしないのである。 実は、私、こと食に関して、観光ガイドやコーディネイターの言に耳は傾けるが、そのすべてを鵜呑みにはしない。自分の目、舌で確かめないと納得できない、という自己中心的わがままで困ったちゃんな性格の持ち主である。いや、慎重で頑固なだけなのだ、と自分では思っているのだが。


 香港の食事情調査、フィールドワークなどもそうである。これまで雑誌や拙著「香港的達人」紹介した店、料理は、ガイドブックを手がかりにすることもあるが、料理などは自分で探し出したものがほとんどだ。実際に足を運び、目、舌で確かめたものである。雑誌などで紹介するにしても、店に通い、馴染みになり、知己を得て取材を申し込む、という手順を踏んだものだ。中には取材を通して知己を得た店もないわけではない。


 取材にあたってはそれなりの準備をし、自分で料理を選択してきた。たとえば「香港的達人」で紹介した地方料理ごとのコースの設定、料理の選択は、すべて自分でやったものである。

 雑誌などで店、料理を紹介する際も、その選択は自分でやってきた。にもかかわらず、たとえば「香港的達人」など、読者の中には、通訳、コーディネイター氏にすべてをゆだね、おんぶにだっこ状態で取材、執筆したものと理解された方もいたようだ。ネットでそうした書き込みをみつけたこともある。それにはいたく失望した。


 どうやら「香港的達人」の最後に通訳を務めてもらった人々への謝辞としてその名を書き連ねたこと、その中にコーディネイターとしてその名を知られる人もいたのがその理由のようだ。

 現実は、あくまで通訳をお願いしてだけのことだ。しかも、実情を明かせば、通訳を担当してくれた彼らは、中国料理に関しては通り一遍な知識しか持たず、仔細な内容については、用語を理解することは出来なかったし、その実態などには詳しくない。素材、調味料、調理方法など、日本にないもの、紹介されてないものもあった。そして、素材の日本名、よりどころになる学名、さらに調味料のその内容、調理方法、など、知る由もない。それを日本に持ち帰って調べたのだが、資料は限られていた。香港や中国で入手した書籍ともとに、改めて日本で資料をあたる、といった作業を必要としたのである。
 それでも、通訳を務めてくれたことに敬意を表し、謝辞とともに彼らの名前を挙げただけのことだったのだが、それが、思わぬ誤解をまねくとは、思いもよらなかった。



 話を戻そう。どんな海鮮料理の店を取り上げるか、ということで実際に出向いてみたところ、香港資本が介入した店は、目新しさばかりが目立った。当時、広州で一番話題の店(として日本の雑誌に紹介されていた)にも行ったが、素材の扱い、調理がいささか香港のそれとは異なる。


 調理方法が違っても、料理そのものがよければも問題はないし、むしろ広州式香港風海鮮料理としての面白さをみつけだせるかもしれない。が、出来栄えを知るには試食する以外にないし、そのための時間、ゆとりもない。


 店を巡りながら海鮮素材の素材の扱い、その調理、味付けを聞き込んだ。さらに、メニューを丹念に調べ、どのような素材を扱った郷土料理があるか、ということをよりどころにした。

 太良/順徳の鳳城風味、もしくは、広州の羊城風味、郷土料理が充実し、しかもその店にしかないような特別な料理、珍しい料理があれば、やはり興味をそそられる。



 ようやく見つけ出したのが「多利來海鮮酒家」だ。白灼(湯通し)、清蒸(蒸す)、炒(炒める)、焗(蒸し焼きにする)などの調理方法、それに調味、味付けなど、海鮮料理の基本を押さえた料理があったこと。同時に、淡水魚、地元ならではの素材を使った料理があったこと。例湯(日替わりのスープ)はじめ、スープ類の種類が豊富で、伝統的な郷土料理の数々があったからだ。



 その夜、試食したのは以下のメニューだ
 「姜葱焗肉蟹」(青蟹の雄の葱、生姜炒め)
 「蒜茸中蝦」(蝦のにんにく味付けの蒸しもの)
 「豉汁炒海柱」(まて貝の辛味みそ炒め)
 「豉油王鮑魚」(とこぶしの醬油味の蒸し物)
 「紅炆花錦鱔」(大うなぎのしょう油煮込み)
 「清蒸紅斑」(はたの蒸し物)
 「蒜茸炒塘菜」(いぬがらしのにんにく味付けの炒め物)
 「例湯(塘葛菜煲生魚)」(いぬがらし、らい魚のスープ)


 ちなみに、塘菜とは塘好菜、どうやら「いぬがらし」にあたるようで、菊菜のような形状、味わいだった。
 
 以上、すべてOK、ということで、紹介するのはこの店にした。もっとも、実際に雑誌で紹介し、撮影する料理については、店の人と相談して再吟味、再検討。我ながらしつこくて、くどいと思います。が、今だにその性格は、変わらないようで、、、。

2007/02/26

閑話休題~マカオ・香港の旅(14)


 「鏞記」には「焼鵞」にうってつけな「瀬粉」がある。円形の細長ビーフンだ。それに前述の通り「雲呑麵」も素晴らしい。美味である。麵の旨さ、具のよさ、按配だけでなく、スープ、だしが良い。
 「瀬粉」、「雲呑麵」など「鏞記」の麵料理、それもスープ類の麵料理に使われているだしは共通のものだが、独自の工夫がある。「鏞記」のだし、さらには料理については、改めて触れるつもりだ。
 
 そして、「陸羽茶室」。下に紹介した「粉麵飯品」のメニューを見れば、種類、内容の豊富さが一目瞭然だ。
 「陸羽」といえば飲茶の点心が素晴らしい。今だ頑なに伝統的な手法、味を守り続けている。ことに「蝦餃」「燒賣」、「叉焼包」などの基本的な点心が素晴らしい。最新流行の店の話題の点心などに比べれば、人によっては古臭く思えるかもしれない。しかし、たとえば「蝦餃」の蝦の擂り身の擂り潰しよう、豚肉とのバランスなど、見事である。
「陸羽」の夜の食事も、素晴らしい。ことに「鳳城風味」、太良/順徳の名菜に出会えるのが貴重である。
 そして「陸羽」の麵。ガイドブックなどではあまり触れられてこなかったことだが、これが良い。知る人ぞ知る話だと言えるかもしてない。
 「陸羽」の清々しい早朝の「早茶」、喧騒が天井にこだまする昼時の「午茶」。いずれも他の店とはいささかに趣が異なる。が、「陸羽」の良さ、その真髄を味わえるのは、人気もなく静寂に包まれた3時頃から5時頃にかけて。その味わい、風情、佇まいは格別だ。「陸羽」だけのもの、「陸羽」にしかないものである。
 そんな時間を見計らい「陸羽」に出向くことがある。本格的な飲茶の流儀である「一盅両件」に倣って、お茶と二種の点心を味わう。
 とはいえ、ざら半紙に赤字で印刷された「星期点心」、週代わりのメニューを眺めまわすうち、未知の点心を見つけ出すと、「両件」だけでは収まらず、点心の数がふえることになる、というのもままあることだ。
 ともあれ、「一盅両件」にならって点心の数を控えめにした時など、「粉麵飯品」の菜単を頼み、麺類を注文する。いや、麺類、あるいは、飯類だけを食べたくて、遅い午後に「陸羽」に出向くことすらある。

 ところで、香港の人たちの「飲茶」事情は、人によってそれぞれ異なる。
 下町の大衆的な茶樓や飯店での「早茶」、つまりは朝の飲茶は、老人、ごく普通の勤め人、腹ごしらえが目当ての労働者などが中心である。昔ながらの点心で、鶏のぶつ切り肉に鹹蛋入りの「鶏球大包」などもあったりする他、各種の「飯品」が用意されている。茶碗よりも大きく、茶碗の1・5か2杯ほどのご飯が入りそうな鉢に様々な具が載ったもので、まさに丼である。
 もっとも、「陸羽」で「早茶」を味わっている客の多くは、それこそ「一盅両件」の流儀そのまま、点心の数は少ない。お茶を味わう、といった趣だ。「陸羽」の顧客は中国人の上流、もしくは中上流階層がほとんどであり、その種の人々にとってのいわば社交クラブな店である。しっかり腹に収まる丼飯を朝食べてひと働き、といった労働者階層とは無縁の店である。
 そんなこともあって「陸羽」で「粉麵飯品」が用意されるのは午前11時を過ぎてからのことなのだ。 「陸羽」に限らず、昼の飲茶のスタイル、様式にも関係してのことである。
 昼の飲茶の「午茶」を、一人で楽しむ人がいないわけではない。
 が、多くの場合は、連れ添う仲間がいる。平日などは、仕事仲間か、あるいは、仕事相手との語らいだったりするようだ。それが週末になると、家族の集いが中心になる。その様子は、手に取るようにわかる。
 そんな「午茶」の飲茶は、点心を何種類かと、野菜の炒めもの、煮込みものなどに、「粉麵飯」から何か一品、というのが至ってオーソドックスな料理構成である。日本のガイドブックなどでは、点心ばかりがずらり、というのがほとんどだ。
 飲茶は点心だけを食べるもの、と理解する向きもあるようだが、実情は違う。「陸羽」の「粉麵飯品」が午前11時から用意される理由もそんなところにある。
 さて、「陸羽」の麵類だが、麵の種類は「生麵」、「伊麵」、幅の異なる「辦麵」が2種。ビーフンは細い「米粉」、幅広の「河粉 」がある。
 サイズは「窩」、土鍋入りのものと、「碟」、ひと皿ということだがゆうに3~4人分はある。そして「碗」。ひと碗、一人用のものである。
 まず「窩麵」のメニューは七品。その最後に「免治牛肉窩麵」というのがある、のが面白い。
 次いで、皿盛りの麵がずらりと並んでいるが、そのほとんどは炒麵で、とろみあんかけのものが多い。その中には「星州米粉」、シンガポール風のビーフンや、「干炒牛河」、牛肉と幅広ビーフンの炒めもの、なども含まれる。
 悔しいことに私はまだ「麵品」のメニューのすべてを踏破しておらず、何品かを食べたことがあるだけだが、いずれも失望したことがない。
 たとえば具沢山の「八珍炒麵」。それとは対照的にいたってシンプルな「鮮菇蝦仁辦麵」など、素材の新鮮さ、調理、味付けの巧みに目を見張ったものだ。なんてことないのに、旨い、のである。
 さらに、碗盛、一人用のスープ仕立ての麵料理が25品。その最後から2品目にあるのが「京醬肉麵」。さきにもふれてきた「京都炸醬面」である。
 が、「陸羽」の「京醬肉麵」は、実際には汁なしで「炒麵」式か「撈麵」式のもの、汁ありの「京醬肉麵」がある。さらに、その麵を好みに応じて変えられるのだから、全部で8種、ビーフン2種を加えれば10種の「京醬肉麵」があることになる。もっとも、基本的には、麵の注文が多く「米粉」、「河粉」で注文する人はそういないようだ。
 「陸羽」の「京醬肉麵」を初めて食べたのは、初めて「陸羽」を訪れた時のことだった。飲茶のメニューにその名があったからだ、と思うが、頼んだところ目の前に現れたのが、汁なしのそれだった。甘味、辛味が一緒くたになった濃厚でいて、なんだか懐かしい味がしたのを覚えている。その懐かしさは、今から思うに「酢豚」の味付けに似ていた、からではないかと思う。
 そして知ったのが、汁ありの「京醬肉麵」。それはスープ入りの麵とともに「炸醬」の具が別皿で添えられているものだ。その具をスープ入りの麵に注ぎいれて食べるのである。
 
 スープ、というのは「二湯」だが、「陸羽」のそれは独自の工夫がある。汁なしなら「炸醬」の具をそのままに味わうことになるのだが、汁、つまり、スープ入りの麵に「炸醬」の具を注ぎ入れると、甘味、辛味が和らぎ、ほどけて、まろやかな味、風味になる。鋭い辛味で刺激が欲しければ、広東人好みの「辣椒醬」を加えればいい。
 「陸羽」の「京醬肉麵」は、顧客の間でリクエストの多い人気メニューのひとつ、だそうである。
 実際に食べれみれば、その理由に納得がいく。
 懐かしさがこみあげてくる味だ。老舗の風格、気品、洗練がそれから汲み取れる。
 同時に、時代から取り残され、しかも、ひなびた趣がある、というのにも惹かれる。
 香港の歴史が刻まれた味、といえるだろうか。
 画像は、その「京醬肉麵」の使用前、使用後、である。

2007/02/25

閑話休題~マカオ・香港の旅(13)


 「京都炸醬麵」という麵料理がある。
旺角にある「好旺角」のそれが有名だ。蔡瀾さんが前出のブルータスの96年12月号での私との対談、さらに「香港美食大神」や、名前は逸したが幻冬舎から出ていたガイドで紹介されていたからご記憶の方もいらっしゃるだろう。
 「炸醬麵」とはいっても「これは北方のそれとはまったく違う広東人の「炸醬麵」で、麵自体に歯応えがあってよい。柔らかい北方の麵とは違うのである」と、蔡瀾さん。けど、味については「炸醬が小さな皿に分けられて運ばれてくるので、甘すぎたり、から過ぎたりするのが嫌な人は、これを好きな風に味付けできる」としか触れられていないから、甘くて、辛い、ということが想像できるだけである。
 ちなみに「好旺角」の麵は2種類。ひとつは幅広の辦麵風のもの、もうひとつは生麵である。他に蛋麵、また米でできた幅広ビーフンの河粉、細めの米粉などもある。蔡瀾さんの好み麵は、生麵のようだ。
 
 確かに「好旺角」の「生麵」は腰があってうまい。もっとも「炸醬麵」との相性ってことになると「辦麵」も悪くない。 で、ここの「炸醬」の味、簡単にいえば、豚肉の甘辛炒め、ということになるのだが、その甘さ、辛さ、みその味がポイント、なのだ。
 甘さは「酢豚」の甘さに近い。そう、酸味もあって、火を通した醋の甘味、旨味が感じられる。で、辛味だが、たとえば日本なら「(辣椒)豆板醬」とは味も風味もことなる広東風の「辣椒醬」の味、なのである。
 もしかして、辛味味とみそ味を加味した「酢豚」のタレの味、という表現がわかりやすいかもしれない。酢豚ほどに酸味が利いていない分、みそのこくのある味、風味がする。
 ともあれ、その甘さ、辛味、というのは広東人好みのもの。伝統的な広東料理にでも特徴的なものなのだ。だから、蔡瀾さんは「広東人の「炸醬麵」」と触れているわけである。
 その「炸醬麵」、街中にある「粥麵店」、それも広東系の店、それに、中式西食を看板にする「餐廳」のメニューにあったりもする。ことに「餐廳」でのそれの、甘さ、濃さ、そのくどさ、しつこさを、試してみるのもおもしろい。そう、突然思いあたったのは、本来は薄味、さっぱり味好みであるのにもかかわらず、その対極に位置しながら、愛してやまない関西人の語る「コテコテ」に、通じるものだ。
 そんな広東人好みの「炸醬麵」、ということであれば無視することができないのが、な、なんと、陸羽茶室の「京醬肉麵」なのだ! 画像は陸羽茶室の「粉麵飯品」のメニューである。

2007/02/19

蟹黄魚翅撈飯(33)

 桂林への旅はたった1日。駆け足で観光名所を巡り、2日目の夜には広州に戻っていた。が、その内容、ことに食に関しては大いに収穫があった。

 桂林に到着した深夜、出迎えてくれたのは地元の観光局の女性だが、なんと、遼寧省から、新しい仕事を求めて桂林にやってきたという。桂林は山間部の盆地にあるから夜もぐっと冷え込む。北から来ましたから寒さには慣れてますが、でも、桂林の冬は苦手なんです、という。どうしてまた?と尋ねたら、北の冬は乾いていますが、ここは、湿度が高くて、寒さが凍みますから、と。


 翌日、朝食もそこそこにざっと市内を回ってロケハンし、桂林観光の目玉である漓江下りの船に乗り込んだ。その景観もさることながら、船上での昼食に大いに盛り上がった。 花より団子である!
その時の料理内容は以下の通りだ

四小碟(前菜、四皿)

 香酥吹喜/タロ芋の揚げ物
 西芹豆腐/干し豆腐とセロリの和え物
 油炸花生/落花生の揚げ物
 油泡川蝦/川蝦の唐揚げ物


 豉汁炒田螺/たにしの豆豉炒め
 油炸鶏/鶏の唐揚げ
 時菜木耳炒肉/ブロッコリー、きくらげと豚肉の炒め物
 時菜炒旦/青菜と卵の炒め物
 炒油菜/菜心の炒め物
 清蒸草魚/そう魚の蒸し物
 三鮮粉絲煲湯/鯪魚のつみれと春雨のスープ


 炒め物、揚げ物のオンパレードだが、どの料理も素材を生かした惣菜的な味付けで、シンプルだし、素朴な味わいだが、すっきりとしていて無理がない。あっさりした軽い味付けのもの、調味料を適度に按配よく使い、メリハリを利かせた濃い味のものもある。川蝦、それに、魚の蒸し物が、「鯇魚」「そう魚」だったり、スープの具が「鯪魚」のつみれだったりするのが、いかにも中国、それも南方の地方色を感じさせる。日常的な惣菜をもとにした、もてなしの料理、メニュー構成である。ひなびた風情もあって、それがまたほほえましく、好感を覚えずにはいられなかった。

 そういえば、かつて九廣鉄道で、広州に何度か旅したさい、食堂車が備え付けられていた。ものは試しと、出向いて何品か食べたことがある。船上の料理は、料理内容、味、風味、いずれの点においても勝っていた。


 漓江の船下りは、全コースを踏破するには時間を要する。そんなことから、途中の陽堤で下船し、桂林の街に戻ることにした。その途中に目の当たりにした光景が忘れられない。私にとっては漓江下りの景観などより、はるかに刺激的だった。


 真っ平らな田圃のど真ん中に、三角おにぎりのような岩山がそこかしこに散在していたのだ。山、といえばなだらかな傾斜がふもとからはじまり、丘がつならり、やがて、険しい峰々がつななる。そんな光景を思い浮かべる。ところが、桂林の郊外で目の当たりにした岩山は、真っ平らな田圃のど真ん中に、ふもとのなだらかな傾斜もなく、いきなりぬっと頭をもたげているのである。壮観、というのだろうか。何かしから心突き動かされるものがある不思議な光景、奇景だった。


 桂林の街に戻ってからは、観光名所を再び巡り、そして、食探索。街中の店の何軒かに飛び込んで、地元の食を試し、楽しんだ。

 なかでも印象に残っているのは「米豆腐」。米をつぶし、炊いて、冷やし固めたものだ。ツルンとした触感で、舌にのせて、口中で押しつぶすとぶちゅっと潰れて、米の味がする。しかも、酸辣の味付けなのだ。酸味は漬物の「酸芥菜」、辛味は唐辛子。漬物の乳酸の味、風味が、すっきりとして爽やかで、旨味もある。それに、唐辛子が旨い。フルーテイーな甘味が潜んだ唐辛子だったのだ。

 「桂林魯菜粉」、「桂林魯菜湯粉」、「桂林三鮮炒粉」などにもトライした。
 
 「粉」というのは、いわば幅広ビーフンだが、「河粉」ほどに幅は広くなく、その半分ほどだ。それに「桂林三鮮炒粉」の「粉」は「切粉」といって、その形状がまた違った。ともあれ、「酸芥菜」と唐辛子、それも唐辛子ミソが、味の決め手だ。「「酸芥菜」を使うのは、漬物の発酵した酸味、旨味を生かしたものなんです。「醋」の酸味だと、どうしても自然な味ではなくなるし、すっきりとした味にならないんで」とはお店の人に取材して聞いた話だ。そして、辛味と同時に甘味が潜んだ桂林の「辣椒」、唐辛子も、味の決め手、ということだった。


 実は、私は「桂林辣椒醤」を愛してやまない人間である。四川の「豆板辣椒醤」などよりも辛味が利いている。それでいて、旨味がある。もちろん、四川の「豆板辣椒醤」の、ひねた味のものも好みで、四川風を再現してみたい時には活用している。が、「桂林辣椒醤」は、それとはまったく、味、風味の異なるものなのだ。日頃愛用しているのは、香港産のもので「冠益食品」のものだ。

 そんなことから、なんとか本場桂林の「桂林辣椒醤」を入手したいと思い立ったのだが「それはないです。だって、店でも家庭でも、それぞれに工夫して作ってますから。市販のものもありますが、お勧めはできないです!」と、キッパリ。

 当然、その店特製の「辣椒醤」を何とか入手したいと思ったのだが、それもあっさり断れた。なら、唐辛子の良いものを見つけるしかない。


 そうなのだ、アジアの国々に旅するようになって、土産物として入手してきたのは、訪れた場所の「塩」と「唐辛子」、及び唐辛子の加工品である。 店の人に教えられた唐辛子の専門店で、桂林の唐辛子を購入。もちろん、粉砕加工したものだが、驚いたのは唐辛子の種まで入っていたことだ。

 
その際、購入した桂林の唐辛子、アジアの各国で手に入れたものとは、味、風味が違った。桂林にもう一度旅したいと思うのは、あのおにぎりにょっきりの岩山の光景をもう一度確かめたいのと、桂林ならではのビーフンもさることながら、桂林産の唐辛子をなんとか、入手したい。その思いでいっぱいになる。

2007/02/17

閑話休題~ヴァレンタイン!





 ヴァレンタインの素敵な贈り物が届いた。
幼い頃からの知り合いで、今は東京でいわばマネージング・デイレクターとして勤務にあたっているMichelleからの贈り物である。
 伝統的な広東料理を紹介した「伝統粤菜~精華録」、伝統的な広東料理を踏襲した香港のそれを紹介した「古法粤菜新譜」の2冊だ。
 陳夢因の「特級校對《食經》」をもとに江獻珠が選んだ料理、さらには広東料理の名菜、郷土料理、また、様々な故事が紹介されたものだ。
 同著では広州の名店とされた文園、南園、西園、大三元の名菜も紹介されている。しかも、大三元の名菜として紹介されているのは「紅焼大裙翅」。「伝統粤菜~精華録」の裏表紙の上に紹介されているのが、それである。

蟹黄魚翅撈飯(32)

 広州に到着したのは昼過ぎ。その夜、桂林に向かうことになっていた。

 その間、市内各所を巡り、撮影の下見をした。茶館などにも案内されたが、驚いたのは年代物の「普洱茶」の値段の高さだった。その状態、また、香りからすれば、高価であるのも納得できたが、香港と広州の物価費の差などからすれば、べらぼうに高い。明らかに観光客目当てとしか思えなかった。「菊花香片」、「頂凍烏龍」などもあったが、いずれも「今いち」、「雰囲気だけの店」と、当時、記したノートにある。すんません、正直で、率直なもので!


 桂林の出発前に、観光局の人の案内で打ち合わせを兼ねて食事に出かけた。
 記憶によれば、広州の最新のトレンドの店、たとえば他誌で紹介されいた南海漁村、それに、西崗漁村、香港仔などの店の名を教えられたが(ノートにその記述がある)、どうも乗り気がしなかった。それよりも伝統的な広東料理が食べられる店、ということから、その両方を兼ね合わせた店、として案内されたように思う。

 その名はなんと「福臨飯店」。マカオに「福臨門」という店があって、ガイドブックの中には香港の「福臨門」と関係があるような記述があるが、まったく無縁であることはいうまでもない。それに比べれば「飯店」という名の方が、まだ愛嬌がある?それも、料理人が「番禺」の出身だと聞いて、え!と唸った。福臨門の徐維均さんの父君、徐福全さんの出身地と同じではないか。


 その夜、食べた料理は以下の通りだ
 「拼盤/焼鴨、叉焼」「高湯雙頂裙翅」380rmb
 「菜膽屯鮑翅」180rmb
 「福臨脆皮鶏」60rmb
 「魚茸煎旦角」36rmb
 「清蒸桂魚」
 「白灼菜心」

 rmbというのは、人民元、つまりは値段である。
 
 「高湯雙頂裙翅」、「菜膽屯鮑翅」ともに1位用、一人用のものだった。「雙頂裙翅」、「鮑翅」の名をメニューに見つけて頬が緩んだに違いないが、なんのコメントも記してないことからすると、並か、それ以下だったか。
  「脆皮鶏」も「龍崗鶏」ということだったのだが、どうもピンとこなかった。

 それより「清蒸魚」が「桂魚」だったことに興奮した。これまで、触れてきたように、中国の淡水魚、川魚の中で王者とされる「けつ魚」である。

 その店に行くまでに、先に名前を触れた「南海漁村」など、地元で評判だという最新のトレンドだという「港式」の海鮮料理の店の何軒かを見て回った。


 そういえば、福臨門の羅安さんの弟子に霍錦常さんという人がいた。福臨門の出身で、文華酒家の「文華」、ついで日航酒家の「桃李」の料理長を務めて後、広州の店に移ったという話を聞いていた。「文華」、「桃李」ともに霍錦常さんの料理に出会い、感動したことがある。そんな霍錦常の店をさぐりあてたい、という目的もあったことを、思い出した。

 話を戻して、最新のトレンドだという店を見て回るうち、驚いたのは生簀に香港の海鮮料理店と同様、多くの海水遊魚が泳いでいたことだ。

 「石斑」の「紅斑」、「星斑」、それに「青衣」。青蟹の一種の「肉蟹」、「膏蟹」等とともに、香港ではほとんど潮州料理店でしか見ることのない「花蟹」までいた。茹でて、冷まして、店先にぶら下げられている「凍蟹」ではない。生きたまま生簀にあった。 台湾産の「鮑魚」、つまりはとこぶしもあった。それに「澳州」、つまりはオーストラリア産の伊勢えびまでもあった。なんという流通の発達、とその時、正直思った。国交のないはずの台湾からの海鮮の輸入が行われていたのだから。それ以前に広州で「花蟹」にお目にかったことに驚いた。おそらく新鮮な魚介は、珠江をさかのぼって届いたのにちがいない。

 その前後、上海に音楽関係の取材で何度が旅したことがあった。初めて上海に行ったのは80年代半ばのことである。以来、10年あまりを経た上海の食の様相はすっかり変わり、浦東にはまさに「港式」の海鮮料理を看板にする店がいくつも誕生していて、それらが最新のトレンドであることをつぶさにしたことがあった。もっとも、上海での海鮮の魚介の種類は限られていた。やはり淡水魚が目だって多かった。

 それに比べ、広州のそれは、香港とほぼ変わりなかった。 と、同時に最新の「港式」の海鮮料理を看板にする一方で、それらと隣りあわせで「桂魚」、「生魚」さらには「大鱔(花錦鱔)」などの淡水魚が泳いでいた、というのがいかにも広州らしい。さらに、菜譜には「鯇魚」、また「鯪魚」の料理が載っていた。

2007/02/15

蟹黄魚翅撈飯(31)

 広州に出発する前、あらかじめプランを立てていた私は、事前にそれを地元のコーディネイターに伝えていた。なんとか「大三元」、「大同酒家」、「沙河大飯店」を取材したいこと。飲茶の点心の取材は「泮渓酒家」で、と連絡しておいた。

 が、現地に到着してみると「大三元」、「大同」ともに、取材は難しいという。「沙河大飯店」も、取材に非協力的、とのことだった。

 私が広州に出かけた前後、私同様、JASの関空発広州便の開通に関連して雑誌などから依頼され、先に現地に向かい、すでにいくつかの雑誌などで広州の食事情が紹介されていた。その中に、私の知人である、大阪で門上武司の主宰するジ・オードのスタッフだった藤木縁、フォト・ジャーナリストを自称する森枝卓士などもいて、二人からも情報を入手していた。が、いずれも広州の最新食事情の紹介が中心で、伝統的な料理や点心を看板にする店も紹介されていたものの、私自身はすでに体験済みで、悪い印象こそないが、触手をそそられるほどでもなかった。

 実際に現地に到着し、コーデイネイター、地元のいわば観光局のスタッフだったのだが、担当氏を直接話をしてみて、日本からの取材陣が紹介する店が似通っているいる理由も判明した。どの雑誌も広州の最新の食事情を紹介することに主眼が置かれ、地元のスタッフもその要求に応じてのもの、というのがその理由のひとつである。
 

 おりしも広州では、香港資本が積極的に進出し、中国との共同資本による新たしい店が相次いで開店し、香港式の海鮮料理、香港式の広東料理を紹介し、評判を得て、最新のトレンドとなっていた。また、西貢などにもそれに倣った地元資本の海鮮料理店が相次いで開店し、賑わいをみせていたのである。

 一方で、地元、広州で名店、老舗として語られている店も賑わいを見せている店もあったが、それらには取材を歓迎する店がある一方、非協力的な店もあり、それを突破するのは難関である、とのことだった。
 

 私としては、最新のトレンドにも関心がなかったわけではない。それも、香港式の海鮮料理が最新のトレンドだということであれば、その実情を知るのも面白い。
 

 話は前後するが、90年代初頭以来、中国本土では「港式」の「海鮮料理」が、最新のトレンドとして中国の各都市で流行にもなっていた。面白いのは「港式」あるいは「港風」は、食事情だけに限らなかったことだ。しかも、その最大の要因となったのが、他ならぬ香港の最新のポップス、香港の歌謡/ポップス系の歌手達の存在だ。中国本土を凌駕してしまった、と言う表現も決して過言ではないほど、香港の歌謡/ポップス系の歌手達は絶大な人気と評判を獲得。彼らの装いがそのまま最新のファッションとして受け入れられるということもあった。

  ことに若年層の支持を得て、香港の歌謡/ポップス系の「追っかけ」なども出現して、社会問題にもなったほどである。
  香港の歌謡/ポップス系の歌手のほとんどは、当初は広東語で歌っていた。80年代、それも80年代半ばから90年代半ばかけては、それら香港の歌謡/ポップス系が広東語で歌ったCANTO-POPSが、最盛期をきわめて時期である。が、香港の音楽市場は狭い。ということから、彼らは音楽著作権が整備され、市場規模の大きい台湾にターゲットを絞って北京語/普通語で歌いはじめ、台湾を制覇する。それが台湾から上海へと飛び火したのだ。

 1978年以後、市場開放政策を実施するようになった中国で、最初に受け入れられた外国の音楽は、欧米のポップスもさることながら、北京語/普通語で歌う、台湾の最新の流行歌/歌謡曲である。その最大のヒロインだったのがテレサ・テン。もっとも、当時、中国でヒットした「何日君再來」が、中台の政治の渦に巻き込まれ、発禁処分の憂き目にもあう。

 そうした事態などを経ながら、かなりの間、中国の流行歌の最新のトレンドを占めてきたのは台湾の歌謡曲/ポップスだったのだが、そこに、北京語/普通語による香港産の歌謡曲/ポップスが登場し、たちまち、台湾のそれを凌駕することになる。


 食事情にも同様のことがあった。香港式の海鮮料理が、中国で最初に取り入れられるようになったのは、香港に近く、また、香港の投資家にとって同じ広東文化圏にある広東省、その州都である広州だ。しかし、中国全土に及ぶほどの影響力は持たなかった。中国全土に影響力を持っていた流行の発信地は上海である。上海で流行した「港式」の「海鮮料理」の流行は、北京にもたどりつき、最新のトレンドにもなる。さらに、それは四川の成都にも及ぶことになった。

 ともあれ、経済的な発展途上にあった中国の地方都市において、食の最新流行は「港式」の「海鮮料理」である。荻昌弘さんに誘われて参加した、千葉の知味斉を本拠にしていた「知味の集い」での南京、揚州への食の旅以来、久々に訪れた南京、それは、中国を代表するロックバンド「黒豹」のコンサートを見るためにでかけたものだったが、その際にも「港式」の流行を知ったものである。


 そうした事情を踏まえた上で「港式」が最初に受け入れられた広州の最新の食事情、そのトレンドを知るのも悪くはない。とは思ったものの、広州の老舗、名店の名菜にであいたい、という気持ちを抑えることはできなかった。

2007/02/14

蟹黄魚翅撈飯(30)

 95年11月、広州、桂林の取材旅行に出かけた。今は無くなってしまった学研の「ラ・セーヌ」誌から依頼によるものだった。同じく今は無くなってしまったJASの関空と広州を結ぶ空路が開通したのがきっかけだった。一緒に出かけたのはフォトグラファーの菅洋志さん。長年の知りあい、というよりも家族付き合いのある友人のひとりである。

 菅さんは、アジアの風景、そこに暮らす人々や生活を撮った数々の写真集を出版し、これまでに土門拳賞はじめ数々の受賞歴を持つ。ちなみに、私が最も愛してやまない菅さんの写真集は「博多祇園山笠」(95、海鳥社)だ。

 菅さんには撮影に専念してもらう一方、私は、取材先の選択や決定、実際的な取材収集などの編集業務のすべて、料理撮影時のアシスタント、さらにはモデル!を務め、執筆も担当した。


 取材にあたって現地にはコーディネイター、ガイドが用意されていたが、観光案内は彼らにお任せにするにしても、食の案内に関しては、彼らにすべてを任せ、その情報をそのまま紹介する、というおざなりなものはしたくなかった。すでに何回か広州に旅した経験もあり、香港の知人を通じて様々な情報を得ていたから、ひとひねり工夫を凝らした案内を試み、それを実践したかったからだ。

 初めて広州に旅したのは80年代初めの頃である。広州は、中国南部では最大の都市、とはいえ、当時、市中の道路はまだ十分に整備されていなかった。車やトラックが猛スピードで突っ走り、しかも、信号無視などは当たり前。先行する車両を追い抜くためには対向車線にずかずかと入り込んでいく。あわや!という場面に何回もでくわし、肝を潰したことが何度かあった。

 一番の繁華街である沙面近くの百貨店に入ったが、香港の中国系のデパートでの物資の豊富さなどとは対照的で、品数も少なく、素朴で質実そのもの。カミサンなどは、必死になって品物を吟味する地元の人たちの間に分け入ってまで、買い物はしたくないと、品物を眺めるだけだった。

 おまけに「六二三路」周辺は、ブロックごとに物乞いが立ち並んでいて、観光客の姿を見届けるとつきまとう。物乞いのテリトリーは厳密に管理、区分されているらしく、ブロックごとに顔ぶれが入れ替わる。そんな有様だったから、かみさんは広州への旅はこりごりだともらしていたものだ。

 が、私としては香港では入手が難しかった食関係の書籍などが入手出来たことから、広州に旅することはいとわず、何度か出向いた。かみさんも否応なしに同行したものである。


 そんな時代を経て、出かけた広州はすっかり様変わりしていた。道路は整備され、街の様子も明るくなっていた。食事情も大きく変化していた。ことに目立ったのは香港から食関係の企業が数多く進出し、中国との共同資本による新しい店が相次いで生まれ、香港式の海鮮料理、あるいは、香港式の広東料理が、最新の流行になっていたことだ。

 一方、かねてから存在していた広州の料理店、茶樓なども、経済的な繁栄を背景に、賑わいを見せ、活気づいていた。

 その取材時、なんとか実現したかったのは、香港の広東料理店における宴会料理、さらには広東地方の郷土料理、家庭料理の源流をさぐること。さらには、香港と広州とのそれらの差異や現状を探り、確認したかった。


 そして、郷土料理、家庭料理に関しては、素晴らしい店を見つけ出した。もっとも、それは香港の友人、作詞家として知られる潘源良から教えられたものだ。

 その店については後に改めて詳しくふれるつもりだが、香港で言えば、かつての「叙香園」、その流れを汲む「酔湖」とほぼ同じだ。旬の素材を生かした「湯」、「小菜」の類が実に豊富で、明らかに順徳/太良地方の「鳳城風味」によるものだった。
 
 素材の生かし方が素晴らしく、口あたりがさっぱりした料理もあれば、適度の調味料を生かしたメリハリのあるきりっとした味わいのあるものもある。最も印象に残ったのは旬の素材を使った「例湯」。それに「蓮藕餅」だった。

 それまで食べてきた「蓮藕餅」といえば、ひとかじりすれば、ぱり、さくっとした噛み応えのあるものだった。それがその店の「蓮藕餅」は、口当たりはしんなり。しかもしっとりとしとしていて、味わい深い。後にも先にも、そんな「蓮藕餅」には出会ったことがない。今だ、その印象は強く残っている。


 そして、伝統的な広東料理。目当ては「紅焼魚翅」だった。

2007/02/12

閑話休題~マカオ・香港の旅(12)


今回の超過密ハード・スケジュールによるマカオ・香港取材を敢行しながら、その間隙を縫って、香港の「粥麵」事情のフィールドワーク!を再開したのにはわけがあった。
 そもそもの発端は、昨年、5月、藤田恵美の香港、上海公演の取材を依頼された際、久々に湾仔のホテルに滞在。暇な待機の時間、湾仔界隈を散策。小食店、粥麵店の変貌ぶりを目の当たりにし、刺激を受け、これは再調査の要あり、と思い立ったのだった。
 以来、かねてよりストックしてあった粥麵店、粥麵事情を紹介した新聞、雑誌記事のクリップ・ファイルを再整理し、再検討。「新・香港的達人」のために準備していたものである。

 
 今回、マカオに到着した日の夜、滞在したホテルの広東料理店で、寝ぼけたような家郷菜を味わい、マカオらしさ、マカオならではの広東料理を再認識しながら、やはり、満足感を得られずにいた。で、ホテルの部屋には私好みの「酒」、「水」がなかったことから、夜の街に買出しに。
 7/11を見つけたものの、その商品構成がこれまたマカオ的、なのである。長洲の裏通りにある雑貨屋に匹敵するほどその内容は乏しい。しかも、実にいなたい、のである。思わず店の人に、近隣にスーパーは?と尋ねたら、英語が通じない。広東語で「超級市場は、有りや?なしや?」と尋ねたら、ついその先だというではないか。が、それもゆるくていなたい「超級市場」でありました。
 
 その帰り道、とある小食店の前を通った。なんだか「匂う!」ものがあった。飛び込んだことはいうまでもない。 店内に入りあたりを見回すと、ほとんどのテーブルの上にあるのは、麵料理と思しき品々と、小菜の皿々。壁のメニューを見て「雲呑麵」が看板だとわかり、早速、注文。
 「だし」は、いたって普通。並である。鶏ガラや豚骨などをベースにしたものだろう。「大地魚」や「蝦子」の風味もある。が、味は押し付けがましくなくて、穏やかだ。「雲呑」の具も「蝦」と「豚肉」のバランスが取れている、はみ出すものがない。いたってオーソドック、というより、ひなびた趣さえある。「雲呑麵」まで、マカオらしいのに思わずにんまり。
 やがて「あ、これって、昔、香港の「粥麵店」で食べたことのある味!」と思いあたった。懐かしい思いにかられた。
 その翌朝、滞在先のビュッフェで「雲呑?」を見つけ、食べた話は前述の通りだ。そうなのだ。眠っていたものに火がついたのだ。
 香港に到着した日、取材の関係からホテルから外に出られず、昼食に取ったのがルーム・サーヴィスの「叉焼雲呑麵」だ。
 
 「だし」は上品で、明らかに「二湯」が使われている。「雲呑」の蝦は新鮮で、ぷりぷりとした噛み応えのあるぶつ切りの身を混ぜ合わせてある。80年代半ば以後の、ホテルのルーム・サービスの「雲呑麵」に特徴的なものである。
 但し、叉焼は、今、ひとつ。焼きが足りず、香りが乏しい。厚切りだったのも、全体のバランスからすれば、につかわしくなかった。
 そういえば、かつては滞在先のホテルのルーム・サーヴィスやコーヒー・ハウスの「湯麵」や「炒飯」を必ずトライしたものだ。急いで食事を済まさねばならないこともあったからだ。
 といって、不味いものは食いたくない。その為に、あらかじめ怠り無く下調査していたのである。
 ちなみに、コーヒー・ハウスでは「湯麵」や「炒飯」よりも、「海南雞飯」を目当てにしていた。とはいえ、そのほとんどが「並」の味、アヴェレージだったのだが、案外、好んで食べていたのが、今はなきハイヤット・リージェンシー・ホテルのコーヒー・ハウスのそれである。
 香港に到着した日の夜、「生記飯店」での食事に不満が残っていた。そして、カミさんが寝静まったのをみはからい、近くの7/11に雑誌やらあれこれの調達にでかけたところ「羅富記」の軒尼詩道店が開いているを見つけ、思わず飛び込んだ。「雲呑麵」を注文したことはいうまでもない。以後、連日「雲呑麵」を食べ続けたのであった。
  香港を経つ最後の日、ぎりぎりまで取材で昼食もままならず。空港に向かう道すがら立ち寄ったのが、これまた「羅富記」。もっとも、私は「雲呑麵」ではなく「牛腩撈麵」。ついでに「浄鮮蝦水餃」にした。というのも、最後の楽しみにとっておきたい「雲呑麵」があったからだ。
 「羅富記」に立ち寄ったがために、空港の到着はチェック・インぎりぎりの時間。そして駆けつけたのはキャセイパシフィック航空のラウンジである。そこに「麵」のコーナーがあるのだ。
 メニューは2品。上海風の「擔々麵」と、広東式の「雲呑麵」。 「擔々麵」は、具にしっかりと味がつき、いきなり食べてガツンとくるインパクトがある。が、私には味がちょっと濃い感じだし、いきなりガツンの味も、そのうち飽きる。で、パス。そう、一応、試したことがあるのです。
  「雲呑麵」は、「麵」、「だし」、具の「雲呑」のいずれともスッキリとしていて、上品で、洗練されている。街中の粥麵店のように「大地魚」や「蝦子」を味の要にしたものではなく、料理店で出会える「二湯」をベースにした「だし」である。
  具の「雲呑」も、蝦と豚肉、それに調味のバランスがとれている。街中の粥麵店での「雲呑麵」とは明らかに趣が異なるもので、そのインパクトにはいささか欠ける。味の濃さを求める人には不満なのに違いない。蔡瀾さんなら、きっと文句をつけるに違いない。今度あったら、聞いてみることにしょう。私はOK。「口」にあってますから!
  そのラウンジの「麵」コーナーだが、「文華酒店」、マンダリン・ホテルの食品部によるものだってことを、今回、初めて知りました。 画像はその「雲呑麵」です。

2007/02/11

閑話休題~マカオ・香港旅行(11)


 湾仔の軒尼詩道と盧押道が交差するあたりから銅羅湾に向かう地域の周辺には、粥麵屋や小食店が立ち並んでいる。かつて「酔湖」(現在「生記飯店」があるところだが)に頻繁に通っていた頃、通りすがりにあっていつも気になっていたのが「永華雲呑麵家」だった。



 ある時、時間の余裕があって飛び込み、食べたのが「鮮蝦雲呑麵」。まずは「だし」に驚いた。それまで香港の粥麵店で食べてきた「雲呑麵」の「だし」だが、私には塩味が強く感じられ「濃い」という印象があった。その理由の根源は「蝦子」にあり、とにらんでいた。



 それが「永華雲呑麵家」のだしは、すっきりとして軽い。おそらくは「大地魚」を多く使って、旨味を出しているのに違いないと思った。さらに「麵」。それも「生麵」だが、しっかりした腰がありながら、スっと歯が入って噛み切れるサクサク感があり、おまけに「麵」、つまりは小麦粉の旨さもある。


 香港の「粥麵屋」に飛び込んで「雲呑麵」を頼んだものの、ただただゴムのように硬いだけという「生麵」に出会って、ひどい目にあったこともある。


 そして「具」。皮の「厚み」、というか皮の「薄さ」。それに、皮に対する「具」の分量、また「具」の中身の「蝦」のすり潰しようや、中身の按配、味付けもよく、しかも、「麵」、「だし」とともに「三位一体」のバランスを保っている、というのに驚いた。その「麵」が、機械打ちではなく、「竹」の棒をつかって、コネコネ、というのは後に資料を調べて知ったことだった。
 

 私が香港で最初に惹かれた「雲呑麵」は、佐敦にある「麥文記」だった。その近くにある「禰敦粥麵」も魅力的だった。

 が、いずれも「だし」が私には濃い目に感じた。「蝦子」を使っているせいだろう。そして「具」そのものでいえば、やはり威霊頓街にある「麥奀雲呑世家」のそれである。


 「雲呑」の「具」はおおきくはあるべからず、という店の信条を物語るのが屋号にある「奀」の一文字。

 小ぶりで、しかも、「具」自体、さらにはわたしには少々濃い目に感じる「だし」とのバランスからすればなるほどと思う。


  ちなみに上環の永吉街の「忠記」、それに、銅羅湾にある「池記」は、「麥奀」の親類関係にある。が、先代は店の企業秘密の全てを、彼らには明かさなかった、という話もあるのがおもしろい。


 そして「麥奀」のほぼ真向かいに雲呑の大きさを売り物にした店が開業し、香港でも話題になったのだが、単に「具」の大きさを誇示するだけで、「麵」、「だし」は、いまひとつだから、バランスにかける。その店は、日本のガイドブックに紹介されているのだが「雲呑が大きくて食べ応えあり!」、なんて「をいをい」というような紹介がなされている。



 「雲呑の「具」は、皮が薄くて、「金魚」の「尾」のようにひらひらとしてること。「具」の中身は、やはり「蝦」だけでなく「豚肉」が入ってなければ「旨味」を出せないからね。それに「蝦」と「豚肉」の分量の比率も、ポイント。昔は「蝦が3、豚が7」というのが一般的だったが、近頃は「蝦が9、豚が1」というのが一般的なようだね。それに豚肉も、肉の身と脂のバランスというのも肝心なところ、なんですよ」と語るのは「鏞記」の甘健成さんだ。


 「鏞記」の「雲呑麵」は、同店の名物料理のひとつである。むろん、「麵」はもとより、「具」、それに「だし」に工夫がある。 今回、久々に「鏞記」の「雲呑麵」を食べて、旨さを再発見したのでありました。

2007/02/07

閑話休題~マカオ・香港旅行(10)

香港にも、粥、麵にうるさい人がいる。粥通、麵通がいる。
 そうした人々がまず口にするのは、あそこのあれ、ここのこれが「旨い、美味しい」ということよりも、まずは「自分の口にあってるかどうか」ということだ。あくまでも自分の「舌」が中心、主体であり、すべての価値判断のもとになっている。

 自分の口にあった味を求める、というのは至極当たり前のことだ。そして、自分の口にあってこそ、旨い、美味しい、ということになる。香港人が語る「旨い、美味しい」という言葉の背景には、そうした事実、現実があることを見逃せない。
 たとえば「美味しい粥、麵屋はどこ?」という質問を投げかけたとする。粥通、麵通を自称する人なら、即座に店の名前を挙げるに違いない。それを語るのが自慢だったりするものだ。
 さらに、その理由を挙げてくれるはずである。と、同時に逆に問い返されるはずだ。
 「で、あなたは、どういう麵、出し、具が好みなの?」と。
 その答え次第で、さらに詳細な回答や説明が返ってくることもある。
 あるいは、「そうか、なら、どうだろうね」という答えが返ってくるはずだ。

 粥通、麵通でなくとも、好みの店があれば、教えてくれることがある。
 が、やはり、一般的には、その人が語る「旨い店、美味しい店」あるいは「旨い麵」というのは、彼の口にあったものであり、絶対的な価値観によるものではないことが明らかになる。

 そして、粥、麵通でもなく、ごく普通の人に同様の質問を投げかけた時、「う~ん、○○、かな」と、いささか消極的な答えが返ってくることが多い。圧倒的多数を占めるといってもいいだろう。というのは、私の体験に基づく話である。
 
 そうした人々に、「じゃ、普段、粥、麵を食べるなら、どういう店で?」と追求すると、たいていの場合、返ってくる答えは 「う~ん、近所の店」である。
 なら、なんで「○○」と店の名を口にしたのか。
 その場合、その人が実際に行った体験がある場合もある。が、たいていは、耳にした評判をもとに教えてくれたりするものだ。
 
 さすれば、どうして近所の店と言う答えなのか、問い詰めれば、「いつも行ってるしね・・・」と、答えはあいまいになる。
 さらに、話を問い詰めれば、要はなじみの味、そして、安心できる味だから、といのがその理由だったりする。
 もっとも、その「近所の店」というのも、不特定なものなのか、といえばそうではない。
 何軒か試して、行きつけの店になった」というのが大半を占めるのだ。
 そう、自分の「口」、「舌」にあった味を捜すプロセスを経て、立ち寄る「近所の店」なのである、という事実が判明してくるのである。
 たとえば、香港の麵通は「麵」、「だし」、「具」にうるさい。
 それも、当然、自分の口にあっているか、好みのものであるかどうか、といういことを基準にしての話だ。

 それは、日本のラーメン事情、ラーメン通が吟味するところとかわりない。そのままである、とも言える。
 香港の麵で最も一般的なのは「生麵」である。小麦粉が主体で、かん水が使われている。家鴨の卵も加えられている。
 香港の麵通が問題にするのは、その製造過程である。つまりは麵の打ち方だ。
 かつては、太い竹の棒で混ぜ合わせた粉をのしたものだ。が、今では機械打ちが主流となった。
 そして、生麵以外に、鶏卵をつなぎにした「伊府麵」がある。また、細めのもの、幅広のものと2種ある「辧麵」がある。
 もっとも、粥面店で多いのは、「生麵」と「伊府麵」だ。ほかに、米の粉を素材にした幅広ビーフンの「河粉」、細めのビーフンの「米粉」がある。

 
 そして「だし」。これは店によって異なる。だからこそのおもしろさなのである。
 「粥麵店」の「だし」は、経済性から言っても一般の料理店とは異なるのは当然な話だ。
 一般の料理店が「上湯」をとるように「老鶏」、「痩肉」、ましてや「火腿」を使うことなどありえない。
 基本は鶏がら、豚骨などだが、豚骨の使用については慎重な店もある。
 それよりも、「大地魚」(干したひらめ、時には、干したかれいをふくもこともあるようだ)、それに「蝦子」(蝦の子を乾燥させたもの)が使われることが多く、その使用量、扱いの按配が味の決め手になる。
 店によっては、地元産の小魚を煎り焼し、煮出してとっただしを使う店もあるようだ。そこが工夫のしどころである。
 と言う話など、昆布やだしじゃこなどの海産物を、だしに加えるか否か、という日本のラーメンの出しの話にも通じる。
 
 しかし、香港の麵店の「だし」は、濁っていたり、白濁させることはない。ということから、豚骨の使用は加減する、ということになるようだ。
 
 そして「具」。最も一般的なのは雲呑、蝦餃である。
 ことに雲呑が最も好まれているわけだが、まず、雲呑の大きさ、その形態、皮の食感、具の蝦と豚肉の比率、及びその味付け、がポイントである。
 それぞれ店ごとに独自の工夫がなされている。客はそれが自分の口にあっているかどうかを問題にする、という次第なのである。
 私の好みですか?今のところ、麺、出し、具のバランス、味わい、風味からいえば、粥麺屋では湾仔の「永華雲呑麵家」の「雲呑麵」ってことになります。画像がそれです。

2007/02/06

蟹黄魚翅撈飯(29)

 「中国名菜譜~南方編」(柴田書店、73年)に紹介されている「大三元」の「紅焼大群翅」では、日本語の料理名は「ふかひれの丸煮込みしょうゆあんかけ」となっている。その最後に「銀針」、つまりは緑豆もやしの炒め物の存在と、その調理方法が紹介されている。「大三元」では「銀針」もラードで炒める、と記されているのが興味深い。

 実は、福臨門はじめ、香港の高級海鮮料理店で「紅焼魚翅」を注文すると、必ずその「銀針」が添えられている。広州の「大三元」の「紅焼大群翅」にも明らかなように、伝統的なスタイルであり、香港でもそれにならってきた証といえるものだ。ここ20年来になるだろうか、「銀針」とともに「韮黄」、黄韮の炒めものも添えられるようになった。「火腿」の細切りが添えられていることもある。

 それにしても何故に「銀針」が添えられ、また「韮黄」も加わることになったのか。

 たとえば赤坂の「樓外樓」の「菜心扒翅」など、青梗菜などが添えられているが、それと同じく、ふかひれ料理に野菜を添える、ということに由来するようだ。
 もっとも、葉野菜、茎野菜などではなく、何故に「銀針」なのか。それは「銀針」の太さ、触感、味わいに関係がありそうだ。

 これまでふれてきたように、香港のふかひれ料理ではふかひれの一本一本の繊維の太さが問われる。そして香港の「銀針」は、日本のそれに比べれば細い。その太さは極上のふかひれである「裙翅」、あるいは「生翅」の太さに準ずるが、もしくはそれよりも細い。

  さらに、それらふかひれの「翅針」が持つ膠質特有のつるんとした滑らかな舌触り、ぷりっとした歯触りとは対照的に、「銀針」にはぱりっとした舌触り、さくっとした噛み応えがある。そんな舌触り、歯触りの対比。さらには、上湯を含んだ「翅針」の味わいと対照的に、「銀針」は、ほとんど無味にちかく、くせのない「清淡」な味わい、風味を持つ。「口を変える」には格好なものだ。

  また「韮黄」には、独特のくせ、風味があるのだが、それでいてふかひれの味わいを邪魔しない。それもまた「口を変える」には格好なものなのだ。

 日本の「もやし」の多くが、太く、また、水っぽく、独特の土臭さを持っているため香港の高級海鮮料理店で「紅焼魚翅」に添えられている「銀針」を実現するには、それなりの工夫が必要なのだが、残念ながら、福臨門以外、お目にかかることはない。

 それよりも、「もやし」を添え物として用意するのではなく、「紅焼魚翅」にあらかじめ入れたまま出す店がある。それでは「もやし」の持ち味、舌触りや歯触りが損なわれてしまう。おそらくは香港での様式を模しただけのことだ。しかも、そうした店に限って本場式に倣ったと自慢し、頑なに添え物として用意しない。あきれるより他ないのだが、高級店とされる店ですらそうしたことがあるのだから、救いようがない。 

   さて、「銀針」、「韮黄」の炒めものとともに添えられるものに「紅醋」あるいは「浙醋」と呼ばれる「赤酢」がある。香港で入手した本によれば「芥子」を添える、ということもあったようだ。「芥子」はさておき、「紅醋」がふかひれ料理に添えられるのは「紅焼魚翅」、あるいは「蟹黄生翅」など、濃く味付けされたものに限られる。「清湯魚翅」や「羹」の類に用意されることはない。

 その用途は、もともとはふかひれを戻す技術が充分ではなく、磯臭さを残し、あるいは、滑らかさに欠けるといった場合、消化の目的もあって、使用されたという。もっとも、そうした問題が解決されていれば不必要ともいえるものであり、むしろ、多量に使用することによって、上質なふかひれ、さらには上湯の味、風味を損ねてしまいかねない。現在では「紅醋」を添える、という形式をそのまま継承しているのがほとんどのようだ。

 といえば明らかなように「紅醋」はどぼどぼと注ぎいれるものでない。少々「紅醋」を、たとえばレンゲで掬ったふかひれに少量たらすといったように、先の「銀針」同様、「口を変える」ほどの量にとどめておくのが相応しい。上質の「紅焼魚翅」では必要のないものである。


 そういえば、かつて大きな鍋によそわれたふかひれの醤油煮込みや澄まし仕立てに、ブランデーを注ぎかけるという儀式が盛んに行われたことがあった、という話を耳にしたことがある。その役割を担うのは、客を迎えたホストであり、ブランデーの品種を吟味し、自慢げにその儀式を行った、という。が、それは、高級料理店ではなく、中流、及び大衆的な料理店での宴席の話だ。

 それらの料理の仕上げが充分なものでなかったことがそもそもの発端であり、いつしか儀式として浸透したのではないか、というものだった。福臨門はじめ、香港の高級海鮮料理店では決してみかけることのない光景である。

2007/02/04

閑話休題~節分





 今日、2月3日は節分の日である。我が家では正月に次いで重要なイヴェントが行われる日である。神戸にいた子供の頃には、その間の小正月も、我が家で重要なイヴェントだった。松飾りを外し、どんとを焼く。そこに割った鏡餅を投げ入れて焼く、と言うものだ。

 我が家では1日、15日はお赤飯の日、と決まっていたが、正月だけは例外だった。元旦はお節と雑煮。小正月には、とんどで焼いた鏡餅の雑煮を食べたものである。もっとも、東京にきて、結婚してから、小正月の儀式はやらなくなった。東京では松の内は7日までで、松飾りを外す。それに、鏡餅も小さいもの簡略してしまったから、雑煮にするほどの量もない。

 その代わり、節分のイヴェントが重要なものになった。今では全国的に知られるようになった恵方巻きの太巻きをこしらえ、鰯を焼いて食べ、豆まきをする。 恵方巻きの太巻き、海苔巻きは、スーパーやコンビニでも売られているのだが、ぎょ!と驚くことが多い。

 日頃、太巻きとして売られているものがそのまま売り出されているのはともかく、海鮮巻きをはじめ様々な種類があるからだ。チラっとのぞいて見える干瓢など、真っ黒けだ。味が濃そうである。それに、甘そうだ。

 我が家の恵方巻きの具は、出し巻き玉子以外はすべて精進ものである。干椎茸、かんぴょう、高野豆腐に三つ葉、という内容である。海苔は伊勢、答志島産の干し海苔。男海苔である。 例年、我が家のものだけでなく、姪っ子一家や友人にも配り歩くから、かなりの量を巻く。太巻きを巻くのと、出し作りのためのおかか削りが私の担当だ。が、今年はかみさんがパリとロンドンで開催されている展覧会に出品し、出席することになって私ひとりで恵方巻きの太巻きを作った。

 昨夜から漬け込んだ昆布、それにおかかを削って出しをとる。その傍ら、高野豆腐、干瓢、干し椎茸を戻す。出しをとってから、酒を煮立たせ、薄口醤油と砂糖で味をつけ、高野豆腐と干瓢を煮る。干し椎茸は戻し汁を入れてたく。すべて味つけは薄味仕立だ。

 煮込む間に、出し巻き玉子を焼く。米を洗い、昆布を浸して炊き、蒸らした後で酢飯を作る。その間に、具を切り刻んでおいて、準備万端。

 そして恵方巻きを巻いたのだが、ひとりですべてをやりこなすには、ことのほか時間がかかった。そして、いつもなら鰯の丸干しを焼くが、今年は目刺しにした。すべてが出来上がってから、今年の恵方、北北西をにらんで、一本丸ごと無言のまま、恵方巻き、それに鰯の目刺しに頭からかぶりついたのでありました。さて、これから、豆撒きであります。

2007/02/03

閑話休題~マカオ・香港旅行(9)

 画像を見て、首を傾げられる方も多いことだろう。
私も目の前にした時、驚いた。そして、思わず爆笑した。

 周中の「周菜」での料理は、文春臨時増刊号の発売までお預けなのはなんとも残念だが、いたし方ない。そして、料理の撮影、取材を終え、試食後にテーブルに運ばれたのがこれである。

 番外編の料理、裏メニューってことになるだろうか。その名は「上湯公仔面」。そう、「出前一丁」の面を使い、周中お手製の「上湯」で仕上げたものだ。

 上に載っかっているのは「煎蛋」、玉子の両面焼きである。おまけとして別皿で周中お手製の「XO醤」が小皿に添えられていた。

 今回の旅行のコーディネイターを務めてくれたJOYCEと周中はいつも冗談を言い合うほど仲がいい。「兄弟(とは私のことである)にはちゃんと料理を用意するけど、君には別の料理をしとくから」というやり取りがあったそうだ。そしてJOYCEのために用意されたのがこの「上湯公仔面」。

「火腿」をふんだんにつかった周中お手製の極上の「上湯」は、しっかり塩味が利いている。しかも「火腿」独特の醗酵した旨味、風味もある。それにくらべて、面はいささかぱさつき気味だ。インスタントのそれ、独特のものである。

 ところが「煎蛋」を箸でつつくとドロりと流れだす卵黄が「上湯」に混じり、「上湯」の塩味を中和し、スープは格別な味わいのものになる。

 それがぱさつき気味の面に絡みつく。そこに、ぶつ切りの「瑶柱」をふんだんに使った周中お手製の「XO醤」を加えれば味が引き締まり、風味が増す。JOYCEが狂喜したことは言うまでもない。極上の「上湯公仔面」、だったのでありました。

 周中は、頑固な料理人だが、こんなユーモラスな一面もある。「美女厨房」で評判を得た理由も察せられる。

 なにしろ、香港では今や「明星」の仲間入りを果たしたスーパー・シェフの周中である。

閑話休題~マカオ・香港の旅(8)




 今回の取材は3月発売予定の文藝春秋の臨時増刊号のためのものだった。
 50歳前後の人々を対象にしたシニア向けのムック、ということで、マカオ、香港の旅案内を仰せつかったのである。実は、私の周りにも50歳を越えるカップルの香港リピーターは少なくない。
 買い物や食べ歩き三昧よりも、ホテル・ライフを楽しみながら、街散歩やフェリーに乗り込んで足を伸ばして島巡り。食事も粥面屋、小食店、香港の中国式西洋料理を提供するいわば洋食屋の「餐庁」に飛び込んで手軽にローカルな「午餐」や「下午茶」を楽しみ、夜はしっかり贅沢な食事、といった趣のものだ。香港ならではの楽しみ、リピーターならではの香港の楽しみ方である。
 今回、私は、食にしろ、食べ歩きにしろ、懐かしいマカオや香港の面影を探る、さらに、懐かしい料理を振り返り、新しい食との対比を紹介したい、というテーマを思い浮かんだ。
 とはいえ、新しい店の紹介は、新しいガイドブック、それに、ネットのガイドに任せることにした。
 香港の最新のガイドの食案内をみると、その事情は日本の、たとえば東京の食ガイドとほぼ変わりない。目新しさやニュース性が重視され、ともかく、今まで紹介されなかった新しい店、新しい料理の紹介が目白押しである。そうして紹介されている店、料理の写真を見たところで、触手も出ない。
 新しい料理として紹介されているものなど、よくよくみれば伝統料理の焼き直し、今日版ってことがわかるからである。
 そんなこともあって、今回、香港で取材した店のほとんどは、すでになじみの店ばかり。私が香港にでむけば、必ず訪れる店である。もっとも、その分、料理の紹介についてはひねりを利かせた。詳細は、発売までお預けだが、その裏レポートを紹介しないではいられない。
 たとえば、今回、編集部から私家房、私房菜、いわばプライベート・レストランをなんとか取り上げたという要請があった。即座に思い浮かべたのは、香港での我が兄弟、周中の「周菜」である。
 86年、今はなきハイヤット・リージェンシー・ホテルに誕生した中国料理店「凱悦軒」の登場は、実にセンセーショナルなものだった。
 20~30年代の上海の茶室をモデルにしたモダンで斬新なインテリア。それにもまして、料理内容、そのプレゼンテーションが斬新だった。その担い手だったのが周中である。
 彼の料理に初めて出会った時、アレ!と思った。そのプレゼンテーション、料理の取り組みにどこかで出会った覚えがあったのだ。
 
 果たせるかな、周中は、80年代半ば、インテリア、サービス、料理内容、そのプレゼンテーションで香港に新風をもたらした「麒麟閣」、それをさらにグレードアップし、斬新でモダンなものにした「麒麟新閣」、ついで香港ホテルの「麒麟金閣」を生んだ「麒麟閣」グループ出身の料理人で、ことに「麒麟新閣」、「麒麟金閣」の斬新な名菜を生んできた人物だと知ったのである。
 
 「凱悦軒」の料理長となった彼の仕事を日本に最初に紹介したのは「an an」での香港特集での食案内における小さな記事だ。そこで「凱悦軒」のランチ・タイムの「1位用」、つまりは一人用のセット・メニューを紹介した。むろん、それまでに「凱悦軒」に通い、出会ったコース・メニューであり、だからこそ紹介したくなったものである。以後も「凱悦軒」に通い、周中の手になる創作的な料理に挑戦し、それらを試して後、雑誌などで紹介してきた。そのつど「以前に紹介した料理はパス!新しい料理をたのんます!」と依頼し続けたものである。
 周中は、西洋料理の素材なども積極的に取り入れ、斬新で創作的な料理を生み出してきたが、その基盤にあったのは伝統的な中国料理、それも、広東地方の宴会料理、郷土料理の数々にあった。アイデアの源はそこにあり、その素材を新しいものに置き換えたものだったのである。さらに、味付けの基本も、伝統的な広東地方の宴会料理、郷土料理にあった。
 「清淡」とした中に、広東地方の宴会料理、郷土料理に特徴的な「甜味」が常に潜んでいた。最上の
ダシである「上湯」の作り方に工夫を凝らしていた。また、素材の持ち味を引き出す術を工夫し、そこに調味料の生かし方を工夫して、最新の創作的な広東料理を生み出していたのだ。つまり、彼の料理はすべて、広東地方の伝統的な宴会料理、郷土料理を踏まえたもの、だったのである。
 「凱悦軒」は、ハイヤットリージェンシー・ホテルの結束とともに閉店した。そしてはじめたのが「周菜」、自身の私家房、プライベート・レストランである。上環のビルの1室にあり、8~12人用のテーブル、2~4人用のテーブルがあるだけだ。1日、2テーブルのみの客だけを受け付けている。
 自身のプライベート・レストランを営む一方、昨年、地元のTV番組「美女厨房」に出演。話題の美女が作る料理を評する審査員、コメンテイターを務めた。ざっくばらんで実直で正直でユーモラスなコメントが評判を呼び、たちまち話題の人となった。そして、2冊の料理本を出版。その内容は濃く、充実している。
 そんな彼の著作に、周中と食事を楽しむ私の写真が!(ギョ)。志木駅そばにある中国料理店で、周中を敬愛してやまない料理人の小林晋さんが経営する「チャイナドール」を訪れた際のものだ。
 そこには、今、話題の新進の料理人、三田の「桃の木」のオーナー&シェフである小林武志の顔も見える。周中に憧れる彼を私が誘い、同行したものである。

2007/02/02

蟹黄魚翅撈飯(28)


 呉昊著「飲食~香江」に掲載されている氏の入手した「南園」の菜譜のをさらにひもとくと、ますます興味をそそられる。画像がそれだ。
 先に紹介した頁では、ふかひれ、干し鮑、さらには魚類、そして家禽類のいわば大菜が紹介されていたが、続く頁では小菜の数々が紹介されている。酢豚なども見られるのが面白い。
 そして、右頁、上段、右から4品目に「窩貼石斑」、さらに、下段、右から2品目に「滑石斑球」があるのが目を惹く。
 「石斑」、すなわち「はた」の類だが、当時から、それが用意されていた、ということなのだろか。
 それに続いて「原盅補品」、広東地方の郷土料理に欠かせない湯煎蒸しによるスープの類がずらりと並んでいる。
 そして「外江鹵味」。主に内臓類を、漬け込み汁、あるいは煮込み汁である「鹵汁」で調理したものだ。それをあえて「外江」としてあるのは、そのほとんどが潮州料理を元にしていることに由来するのかもしれない。
 そして、最後は「焼烤」類。焼き物である。その最後に「焼金銭鶏」とあるのは、鶏肉の肝臓を蜜汁で焼いた鶏肝だろうか。今も懐かしい郷土料理としていくつかの店で出会える一品である。
 ともあれ「南園」の菜譜は、香港の広東料理の原点、源流が広州のそれにあったことを如実に物語るものだ。もっとも、残念なことに「南園」の菜譜から、料理名を知ることはできても、その料理方法や味付け、風味が不明である。
 そこで参考資料となるのが「中国名菜譜~南方編」(柴田書店、73年)であり、先に触れてきた広州の名店の名菜が紹介されている。
 なかでも興味をそそられるのは「大三元」の「紅焼大群翅」である。同著ではその料理方法が詳しく紹介されている。
 最も注目すべきは、ふかひれを戻し、煮込んで味付けした後の最後の仕上げだ。
 「強火でラードを熱し、酒を振りいれ、頂上湯を注ぎ、煮立たせ、化学調味料、上質しょう油、胡椒を入れてから、水で溶いたかたくり粉を加える。とろみがついたら「鶏油」をたらし、皿にもったふかひれにかけて出来上がり」、とある。
 まず「頂上湯」だが、老鶏、豚の赤身肉、火腿などで作ったもの。今の上湯と同じである。
 そして、調理の脂だが、ラードが使われている。また、調味料のうち、「上質のしょう油」は、原文では「老抽王」、つまりは塩分が少なく色の濃いたまりしょう油である。
 問題は「水で溶いたかたくり粉」の「かたくり粉」だ。原文では「生粉」とある。それは、厳密には「かたくり粉」ではなく、豆のでんぷん質のことなのだ。そして、日本で「かたくり粉」といえば、一般的にはかたくりからとれたものではなく馬鈴薯、つまりはじゃがいもの澱粉なのだ。
 「かたくり粉」の話は、後述することにしよう。
 ともあれ、調理にはラードが使われ、中国たまりしょう油で色あいと味がつけられ、さらに、仕上に「鶏油」が使われる。
 ということからすれば、現在の香港の一般的な「紅焼魚翅」に比べれば、脂っこく、濃厚な味、が想像される。
 そう、現在、香港の料理店では、ラードの使用は避けられ、花生油、ピーナッツ・オイルがもっぱら使われている。ラードが使われるのは、その味、風味が必要なときに限られる。もっとも、点心などでは今も使われることが多い。
 そして、仕上げの「鶏油」、それはおそらく、料理の照り、また、コクのある味、風味を出すためのいわば「化粧油」だが、それも避けられていることが多い。
 とすれば、「大三元」の「紅焼大群翅」は、濃厚でコクもあるしっかりした味わい、風味を持つふかひれのしょう油煮込みだったのではないか、と想像されるのである。

2007/01/31

閑話休題~マカオ・香港の旅(7)





                                         香港に到着して二日目の朝、滞在していたホテルのラウンジで朝食をとった。プライベートな旅行なら、東京での毎日と同じように昼近くまで寝ていて朝食はパス、といったことが多い。今回は取材旅行であり、早くに起きて朝食もしっかりとり、腹ごしらえしておかないと仕事が捗らない。

 もっとも、滞在したホテル、以前にもプライベートな旅行で何度か宿泊したことがあり、朝食が実に充実していたからいつもと違って早起きしていた。食べ物目当てなら、早起きもいとわないいやしんぼうの私である。

 で、以前は部屋で朝食をとったが、今回はラウンジのビュッフェにでかけた。

 その内容は充実していて、眠い目が一気にさめたほどだ。関心したのは飲茶の点心の良さで、どれも味、風味、申し分なく、香りが豊かだった。

 とりわけすばらしかったのが腸粉。米の粉を原料した幅広の生ビーフンである。

 もっとも、飲茶の点心だけで満足できるわけがなくて、パンケーキとハムやソーセージ類も一皿。パンケーキはメイプルシロップではなく、蜂蜜にした。ハムやソーセージ類は、日本のようにアミノ酸調味料が加えられてないから、素材のよさを存分に味わえる。

 但し、不満なのはパン類がいまひとつなことだ。デニッシュものがバラエティも豊富だが、ごく普通のパンの種類が乏しい。これは香港のどのホテルの朝食でも抱える問題である(って、大げさですかね!)。

 ホワイトブレッドだけでなく、ライ・ブレッド、グラハムブレッドなどなどに、フレンチ風、ドイツ風の各種のパンがあれば文句なしなのですが。

 というわけで、ハム、ソーセージ類とともに、パンケーキを食べたのでした。 

蟹黄魚翅撈飯(27)


 呉昊著「飲食~香江」に紹介されている呉昊仔が入手した「南園」の菜譜は、実に興味がつきない。
 従来の香港の宴席の大半を占めていた「八大八小」の構成を改め、やがては香港の宴席料理の構成内容の「十大件」の内容を知ることができるのも嬉しい。
 それにも増して、次いで紹介されている「南園」で供されていた料理の数々を紹介した菜譜をみれば、興奮しないではいられない。
 画像がそれである。まずは「鳳尾扒翅」を筆頭に「紅焼鮑翅」、「紅焼包翅」、さらには「蟹黄大翅」、「蟹蓉大翅」など、ふかひれ料理の数々が並んでいる。
 上段の一番最後にはなんと「蟹黄燕窩」まであるではないか。燕の巣の蟹みそあんかけ仕立てである。料理名をみただけで、思わず涎がこぼれてしまう。
 2段目に入って、干し鮑の料理が2種。それに続くのが「脆皮炸子鶏」(鶏の丸揚げ)、さらには「片皮焼鶏」まである。
 鶏を焼き上げ、北京ダック風にその皮を食べる、という趣向のものだ。すでに当時、北京ダックスタイルの鶏の焼き物があり、北京ダック仕立てで食べるというスタイルが定着していたことを物語るものだ。
 それら、鶏の料理の種類の豊富さにも目を見張る。さらに、続く頁では、法螺貝の料理があり、また、蝦の料理の数々が紹介されている。
 魚料理の素材であるのは烏魚。淡水魚のらい魚の一種で、蒸し物の「清蒸」、それに豚肉などの細切りなどとともに醤油煮込みにする「紅炆」がある。
 ついで「紅炆斑腩」があるのが驚きだ。「斑」と記されているからには、海水魚の「石斑」ということになるからである。
 さもなくば、ライ魚の一種の山斑魚か、もしくは、大ぶりの淡水魚で、腹身の部分が旨い「鯇魚」(そう魚)をつかったものなのか。
 その実態は不明であり、想像をたくましくするしかないのだが、ともあれ「南園」の菜譜は、見ているだけでも興奮を覚える。
 そして、香港におけるふかひれ料理の歴史、足跡がたどれる、ということでも興味深いものだ。

閑話休題~マカオ・香港の旅(6)


 今回のマカオ・香港の旅に際し、ガイドブックをいくつか購入した。久々にガイドブックを見ながら、ガイドブックの変遷ぶりを目の当たりにした。
 香港の知人である蔡瀾さんが大きくフィーチャーされている。TV番組「料理の鉄人」の審査員として登場し、日本にもその存在を知られるようになった蔡瀾さんは、日本に留学中、香港の映画会社の依頼で日本の映画を香港やアジアに配給する仕事に携わり、やがては香港の映画界でプロデューサーとして活躍。文筆家としてもその名を知られることになった。
 その後、映画界から離れ、文筆活動の傍ら、旅行関係の仕事などにも携わってきた。
 日本では「美食家」として知られる彼だが、美食好みよというよりも、お酒が好き。薦める料理も酒のつまみに格好な、辛口で味の濃いものが多い。
 BRUTUS誌の96年12月1日号の「97年6月30日、あなたは何を食べますか」で、対談した際、香港のお薦めの料理店、お勧めの料理を競い合ったことがある。二人で意見の一致を見た店がある一方、意見の相違があった際、その相違は、酒ありて食ありという蔡瀾さんに対し、食ありて酒ありという私の意見の差異によるもだった。
 蔡瀾さんとともに香港の「餐庁」事情に詳しく「香港無印美食」の著作で知られる龍陽一も、大きくフィーされている。
 
 龍は香港の食を愛してやまない我が愛弟子、香港兄弟の一人である。「餐庁」食についてのあくなき追求に関しては敬意を払うより他ない。
 ともあれ、ガイドブックを見ながら、一瞬、目が止まったのは、海鮮料理の店として「生記飯店」の名を見つけたことだ。
 もっとも、住所は湾仔だが、荘士頓道ではなく、軒尼詩道となっている。
 今回、マカオ・香港の旅でコーディネイターを務めてくれたJOYCEが、その訳を教えてくれた。
 なんと「生記飯店」は荘士頓道から軒尼詩道へと移転。しかも、その場所はかつて「酔湖」があったところだという。その話に驚いた。
 「酔湖」は忽然と現れ、忽然と姿を消した名店である。
 かつて洛克道に「叙香園酒家」という名店があった。以前、その九龍店の小菜のメニューを紹介してきた。広東地方の郷土料理の数々を看板にし、香港中にその名を知られていた。が、店のあった場所が再開発のため「叙香園」は閉店。
 
 その主要なスタッフ、マネージャーや料理人が、別の出資者何人かが湾仔で開店した「酔湖」に移動した。かつての「叙香園」を懐かしむ客が訪れ、たちまちのうちに店は絶大な評価を得た。食べることが好きな人々、食通、美食家の多くが、香港の名店、それも、好きな店として挙げた店だ。
 その「酔湖」については、また、改めてふれたい。
 さて「生記飯店」だが、荘士頓道にあった頃、私はひそやかに愛し、通ったものだ。
 その佇まいは香港のどこにでもあるような、ありきたりな小食店といった趣で、これといって目だったところはなかった。が、店頭に並んだ水槽をのぞきこめば、他の海鮮料理店のそれとは明らかに違った。蝦や蟹よりも九肚魚、獅子魚、梭囉など、広東省南部の沿岸部で取れる地魚が並んでいたからである。
 
 「生記飯店」の店主、料理人は、広東省の西南部、広州の南に位置する順徳地方の出身であり、同地の料理を看板にしていた。興味深い経歴の持ち主である。その話はいずれ紹介したいと思う。
 
 さて、元「酔湖」の後に居を構えた新しい「生記飯店」は、海鮮料理を看板にする店へと営業方針を改めていた。元「酔湖」のしつらえそのまま、店の隅の水槽に泳いでいたのは、石斑や立魚の類、それに蝦である。かつての店の店頭に並んでいた地魚の類は皆無だった。
 メニューをみると、順徳地方の郷土料理も並んでいる。が、それ以上にごく普通の広東地方の郷土料理が大半を占めていた。
 蝦を食べようということになった。 同伴者が、久々の香港だというので、白灼蝦を!と考えたが、それにふさわしい蝦はなかった。季節はずれだったからである。そう、蝦にだって旬があるのだ。
 水槽に泳ぐ蝦は中蝦で、明からに近海ものではなく、外洋産のものだった。
 それなら、茹でたり蒸すより、炒めるか、揚げものにするのがいい。
 そこで思いついたのが、炒めて醤油味で仕上げた「豉油王煎蝦碌」である。
 それは店のお勧めのメニューにもなっていた。
 果たせるかな、まずまずの味である。が、いささか「鑊気」、つまりは鍋の火の勢いに欠け、香りも乏しい。一体、どいうことなんだ?と、首をかしげた。
 もう一品、店のお勧めのメニューの「鹽焗鶏」。悪くはない。
 が、素材の鶏の質がいまひとつ。調理も鳥肌の色艶や照り、塩味の決めなど、いささか物足りない。もっとも、値段からすればいたしかたないく、それなりのものではある。
 「蜆介鯪魚球」を注文したのだが、塩味が利きすぎて、料理としての完成度はいまひとつ。
 ほっと心が和んだのは、なんてことない「蒸水蛋」だった。
 お粥が看板料理になっていて、何種類かあったが、今回はパス!
 「う~ん、あの「生記飯店」はどこにいってしまったのだろう!」。
 思わず遠い目になってしまった「生記飯店」だった。

2007/01/29

閑話休題~マカオ・香港旅行(5)

 
  マカオと香港。フェリーで1時間ほどの距離だ。が、遠い隔たりがある。マカオを訪れる度に、そんなことを思う。
 ことに食に関して、同じ広東の食文化圏にあり、大半の住民は広東人であり、広東料理を下敷きにしていながら、味、風味は異なる。
 そして、香港にマカオからの影響はないのか。一時、ポルトガル風タルト/葡式蛋撻が日本にも紹介され、少なからずブームを呼んだことがあった。香港から日本に紹介されたものだが、もともとはマカオから伝来したもの、ということだったから、やはりマカオと香港には何らかの関係、結びつきがあるのかと関心を持ち、その関係を知りたいと思ったこともある。 
 それ以前、80年代から90年代代にかけて、香港の料理店のメニューに「葡式」、あるいは「葡汁」といった表記をみつけたことだあった。浅はかにも、当時、それをポルトガル式、あるいはポルトガル風味、と理解していた。しかも、マカオから伝来した料理方法を取り入れたものだと理解、解釈していた。
 たとえば「醸焗鮮响螺」。小ぶりのほら貝の身のぶつ切り、蝦のすり身、豚肉のひき肉などを「葡汁」で混ぜ合わせオーブンで焼いた料理である。
 その「葡汁」だが、クリーム状のホワイト・ソース風のものだ。むろん、香港で中式西食を看板にする中国式洋食店の「餐庁」にあるような小麦粉をふんだんにつかった粉っぽい「白汁」とは違って、ダシもしっかりしたもので、オーブンで焼かれ、焼色もついている。いわば、海鮮のグラタン、ほら貝詰めのオーブン焼、とでもいえるものだ。
 80年代半ば、香港で最新の料理とサーヴィスを看板し、話題を呼んでいた「麒麟閣」、同店をさらにグレードアップした「麒麟新閣」の看板料理のひとつにもなっていたし、「麗晶軒」など、トップクラスのホテルの中国料理店のメニューにもあった。そのバリエーションが「葡汁海鮮飯」。簡単に言ってしまえば、海鮮のグラタン、ドリアといった趣のもので、これもオーブンで焼かれ、焼色がついている。
 似た様な料理に「醸焗鮮蟹蓋」がある。もっとも、それは「福臨門」など、伝統的な料理を看板にする店にあったものだ。蟹の甲羅にクリーム・ソースであえた蟹肉入りなどの具を詰めてオーブンで焼いたものだ。ただし、表面にはパン粉などをまぶしてやきつけてあるから、表面はコロッケなど揚げ物風の趣。が、味のベースは「葡汁」で、それを変化させたものだ。 
 ともあれ、「醸焗鮮响螺」にしろ「葡汁海鮮飯」にしろ「醸焗鮮蟹蓋」にしろ、明らかに西洋料理から影響大であり、それなしに生まれなかったのでは?と察せられる料理である。しかもそれらは「葡式」とされ、「葡汁」が味の要となっている。
 そして、「葡式」、「葡汁」が、単にポルトガル式、あるいはポルトガル風味のソースを意味するものではないことを後に知った。
 その昔、中国人が接した西洋人はポルトガル人であり、以後、西洋人はその出自がポルトガルであるかどうかは無関係に「葡国人」と称されることになった。極端な話「西洋人」とほぼ同義語だともいえるようだ。それは香港にかぎらず、中国本土でも同様であり、そうした記述を見かけることは少なくない。
 さて、マカオでの取材を終えて、我々一行は、香港へと向かった。到着早々から、取材、撮影に追われた。そして、その夜、湾仔の「生記飯店」に行った。
 画像は「生記飯店」の看板メニューのひとつ「鹽焗鶏」である。

2007/01/28

「南園」の菜譜



 呉昊著「飲食~香江」から。氏が古本屋でみつけた「南園」の菜譜が、同著で紹介されている。
 表紙についで、「南園」の「十大件」の内容が紹介されている。
 それからも明らかなように「十大件」以外に「四熱葷」、点心や面類、突き出しとして「二京生果」、「四飯菜湯」などもあわせて用意されていた。

蟹黄魚翅撈飯(26)

 「大三元」、「南園」、「西園」、「文園」。
 20世紀初頭の1910年代、広州で名店とされた4軒である。それぞれに代表的な名菜があった。
 「大三元」は「紅焼大裙翅」、「南園」は「紅焼網鮑片」、「西園」は「鼎湖上素」、「文園」は「江南百花雞」で知られていた。

 そのうち「南園」が香港に進出し威霊頓街に店を構えた。1920年代のことだったという。そして「南園」は「十大件筵席」を紹介する。

 それまで香港の料理店、というよりも料亭の料理構成の主流をなしていたのは、これまでに紹介してきたように「八大八小」だった。そこに「南園」が「十大件筵席」を香港に紹介する。それを契機に多くの料亭、料理店がそれに追従し、やがて香港における宴会料理の基本的な構成になる。それは現在も受け継がれている。

 当時、一般的に流行した「十大件筵席」は

 「蟹肉魚翅」(蟹肉入りのふかひれ)
 もしくは「雞蓉燕窩」(燕の巣と鶏のすり身の羹仕立て)、
 もしくは「清湯魚肚」(魚の浮き袋の澄ましスープ仕立て)

 「蠔油鮑片」(干し鮑の切り身のオイスターソース煮込み)
 「片皮火鴨」 (家鴨の焼き物)
 「油泡蝦球」 (むき蝦の炒めもの)
 「紅焼山瑞」 (すっぽんの醤油煮込み)
 「火腿拼雞」 (不明)
 「風乾吊片」 (一夜干しのするめの炒めもの)
 「清炖花菇」(干し椎茸の湯煎蒸しのスープ)
 「清蒸邉魚」(魚の蒸し物、魚は桂魚と淡水魚の偏魚(ハクレン) )
 「炸腰乾巻」(不明)

といった構成だ。 以上のうち「火腿拼雞」 は鶏肉の炒め物のあんかけに火腿を揚げたものを添えたもの、また、「炸腰乾巻」は、豚の腎臓を包み揚げだと思うが詳細は不明だ。
ともあれ、現在の香港の宴席で組み入れられる料理が大半を占めている。
また、ふかひれ料理の「蟹肉魚翅」だが、おそらく清湯仕立てで、当時の事情からすれば、とろみあんかけが施されていたものと想像される。

 そして「南園」の「十大件筵席」だが

 「紅焼包翅」(ふかひれの醤油煮込み)
 「瑞靄連絲」(すっぽんとれんこんの細切り煮込み)
 「大展鴻圓」(燕の巣の蟹みそ和え)
 「珊瑚百花鴿」(蝦のすり身塗りの鳩の揚げ物)
 「羽袖添香」
 「玉液金雞」
 「宣威掛爐鴨」(かまど焼の家鴨)
 「禄海鮮蹝」
 「蝶影梅花」(蝦のすり身塗り薄切り鮑、蟹みそあんかけ)
 「全福壽」

 といった構成内容だったという。

 以上の内、「羽袖添香」、「玉液金雞」、「禄海鮮蹝」、「全福壽」についての料理の詳細は不明だ。

 ともあれ、「十件」の中になかに「紅焼包翅」が含まれていることに興味をそそられる。

2007/01/26

閑話休題~マカオ・香港旅行(4)


マカオの食事情については、マカオ観光協会のサイトで紹介されている。
 それにしても「をいをい!」と文句をつけたくなるほど、その紹介は大雑把だ。
 たとえばポルトガル料理だが「オリーブオイルや少し辛目の香辛料、ニンニクなどでさっと軽く味付けしたものがポルトガル料理の特徴」と断言してしまう乱暴さに恐れ入る。
 マカオにあるポルトガル料理に行ってみればその断言がいかに乱暴で大雑把なものかがわかる。
 以前、dancyu誌の取材で訪れた際、同行してくれたマカオ観光局の方はもとより、ポルトガル料理の店を訪れるたび、店のオーナー、マネージャーや料理人から「ポルトガル、といってもいささか広うござんす。南北に伸びた同地の料理は、北と南、さらに、沿岸部と内陸部では異なり、それぞれの地方ごとに味付けも違いますし、独特の料理方法がありますから」と聞かされた。しかも、それぞれの店ごとに「ウチは○○地方の料理が看板です」として、それぞれの地方料理の特徴や代表的な料理方法、料理を教えられた。
 マカオでポルトガル料理の代表として紹介されることが多いバカリャウも、店ごとに味、風味は異なる。それは地方色の違いによるからだ、とのことだった。
 さらに、先のマカオ観光局のサイトでマカオ料理について「ポルトガル料理に中国、インド、アフリカ等各国料理の美味しさが加わって最終的に出来上がったのがマカオ料理だ。スパイスの効いた港町の料理といったところで、マカオ近海でとれる豊富な海の幸と中国からの野菜をふんだんに使っているのが特徴」、と記されている。
 言われてみればなるほど、と思う料理に「アフリカン・チキン」、「カレー・クラブ」がある。スパイシーでホット、しかも、エキゾチックな味と風味が特徴だ。
 もっとも、私の観察は異なる。マカオ料理の基本は中国料理、それも広東料理だ。そこに、かつての帆船時代、ポルトガルからマカオに至るまでいたるまでに点在する寄港地の地方料理、その料理方法やエッセンスがマカオにたどり着き、それらが、中国料理、それも主に広東料理に織り込まれ、生み出されたのがマカオ料理ではないか、ということだ。
 どうやら、マカオでポルトガル料理を看板する店は、およそ二つに区分されるようである。
 経営者、料理人がポルトガル人、もしくはポルトガル系の西洋人、あるいはポルトガルと中国系の混血による店。そして、それ以外のもの、という区分である。それ以外の店で圧倒的多数を占めるのは中国人の経営者、料理人による店だ。
 ポルトガル人の経営者、料理人による店は、前述のように、ポルトガルのどこかの特定の地域の料理を看板にし、それを特色としている。
 それが、ポルトガルと中国の混血系、中国人の経営者、料理人によるポルトガル料理店では、マカオ料理とされている料理もメニュー並んでいたりする。
 マカオ料理を看板にする店も、ポルトガルと中国人との混血系か、もしくは中国人によるものに区分されるようだ。両者にメニュー内容はほぼ共通している。が、その調理、味、風味が異なるのことは、実際に食べてみれば明らかだ。
 ややこしい話だが、それが現実なのだ。
 「一体、マカオ料理とはどういうものなのか!」という素朴な疑問から、食べ歩きを実践して得た結論である。
 
 ポルトガル料理、マカオ料理を看板にする店も、素材の吟味、調理の技術面から観察すればそれには明らかな差異があり、レベルも異なる。旨い店もあれば、まずい店もあるのが現実だ。
 その判断は個人的な嗜好に基づくものではない。素材、調理を吟味、検討しての評価である。
 日本で出版されているマカオのガイドブックの食ガイドを信用しないほうがいい、という理由はそうしたことによる。そうした観点からの評価は、皆無に等しい。という以前に、そこまでの追求はなく、ただただ料理店、料理人の意見をそのまま反映したものだからだ。
 マカオの食ガイドはもとより、日本の大半の食ガイドにも共通して言えることだ。、

 さて、先のマカオ観光局のサイトによる食案内だが、中国料理についての紹介も「北京、四川、広東、上海、潮州などお隣の香港で食べられる中国料理ならほとんど何でも揃っており、中国料理で困ることはない。マカオ人はさっぱりした味を好むので、日本人の好みにもよくあう」と、これまた大雑把だ。
 それもまた、ツッコミをいれたくなる紹介である。
 というのも、まず、多くの日本人が中国料理に対して持っているのは「中国料理というのは、脂濃くて、味が濃いもの」というイメージであり、それは共通概念として、すでに定着している。
 実際、香港などの高級料理店は「さっぱり」、というよりも「あっさり」、つまりは「清淡」な味を特徴としているのだが、多くの日本人客にとってそれはいささか物足りないものであり、それ以前に自身が体験し、認知してきた中国料理とは異なるもの、として拒否反応を示すことが多い、という。
 そのため、日本人客の「さっぱり」という要求に対して、現実には味を少々濃い目にする、というのは何度も香港の高級料理店のマネジャーや料理人から聞かされてきた話である。そして、日本人客は、それに納得し、「さっぱりしている!」と感想を述べる、という現実がある。
 さて「マカオ人がさっぱりした味を好む」という断言も実に大雑把なものだ。
 少なとも私が知り合ったマカオ人のすべてはそうではなかった。つまりすべてが「さっぱり」好みではなかった。
 さらに、彼らの言う「さっぱり」の真意は、彼らの日常食を知ってはじめて理解できるものであり、日本で語られる「さっぱり」とは、その意味、真意は日本のそれとは同じものとはいえないものだった。
 濃厚な味付けの料理もあって、決してマカオの料理のすべてが「さっぱり」とは思えなかった。
 それはマカオ料理店における「カレー・クラブ」や「アフリカン・チキン」の濃厚な味付けからも明らかだ。
 
 そして、マカオの中国料理は、たとえば広東料理など、香港のそれに比べ、穏やかで、素朴な味、風味を特徴している。実際に食べてみれば、それは明らかであり、これまでに触れてきたとおりだ。
 しかも、中国料理はマカオ料理に比べ、淡白なもの味、風味を持つものが多い。
 つまり「中国料理といえば脂っこくて、濃い味付けのもの」と言う認識をもつ多くの日本人にとっては、むしろ、物足りなさを感じるのではないだろうか、というのが私見である。
 残念ながら、マカオの四川料理、上海料理、潮州料理を食べる機会にはめぐまれていないが、住民の大多数を占めるのが広東人であり、特有の嗜好をもっていることや、同じ広東人が大多数を占める香港でのそれら各地の料理を思い浮かべれば、その現実は推して知るべし、といえるのでないだろうか。
画像はセナド広場。さらに、フランシスコ・ザビエル教会にあった、ザビエルの像である。

2007/01/25

閑話休題~マカオ・香港旅行(3)




香港とマカオ。いずれも広東省の南部に位置する。フェリーで一時間ほどの距離だが、香港とマカオでは街の風情、佇まいはまったく異なる。

 香港はイギリス、マカオはポルトガルの領地だったという歴史にも関わりのあることだ。いずれも住民の大多数を占めるのは広東系の中国人だ。 もっとも、香港では広東省東部の潮州から香港に移住した潮州系の中国人が多く存在し、香港島では上環から西環にかけて、九龍半島では九龍城市を中心に潮州人が住み着き、コミュニティーを形成してきた。その名残は今も残っている。たとえば、香港化された潮州料理ではなく、本場潮州の郷土料理を伝える店は上環と九龍城にしかない。

 また、香港では上海系中国人の存在を見逃せない。戦後、ことに中華人民共和国の成立前後、上海から移住してきたもので、香港島では北角、九龍半島では尖沙咀に住み着き、それぞれ上海系のコミュニティーを形成していた。

 上海系の中国人は、広東系、潮州系に比べて人口比率は低い。が、上海から移住した海運、金融、紡績業を営む上海系の資本家が戦後の香港の繁栄に大きく貢献し、経済面のみならず政治面などでも大きな位置を占めてきた。それは今も変わりない。それに、戦後の香港の文化、娯楽面において上海系の中国人が果たした役割は大きく、映画、TVなど娯楽産業の中核をなしてきた。

 さらに九龍半島の鑽石山には四川系のコミュニティー、香港島の北角には上海系の中国人と隣り合わせに共存する形で福建系の中国人のコミュニティーが存在した。

 そうしたことからも明らかなように、香港は広東系の中国人が大多数を占めるとともに、中国各地の出身者も共存し、それらが混在した上で独自の中国人社会を形成してきた街だといえよう。

 それに対し、マカオの中国人社会は広東人が多数を占め、中国各地からの移住者が占める割合は少ない。街ののどかさ、素朴さ、田舎っぽさ、いなたさも、そうしたことと無関係ではないようだ。地続きの広東省、それも、広州などに通じる特有の雰囲気、佇まいがある。

 マカオの中国料理についても同じことが言えるようだ。
 たとえば、マカオではトップにランクされている広東料理店の「西南飯店」の料理の数々、ことに味の要である上湯がそれを物語っている。

 香港の高級料理店の上湯が、徹底的に旨味を追求し、濃厚なエキスを抽出し洗練をきわめているのに対し、「西南飯店」の上湯は、旨味、洗練を追求しながらも、穏やかで優しい。それも、どこか広州の高級料理店とあい通じるものがある。

 ごく庶民的な中国料理店である「冠男酒樓」の点心の類なども、みかけこそ香港の料理店のそれと変わりないが、味わい、風味は、広州の料理店の点心に通じるものがある。  

 街中の粥麺店なども同様だ。たとえば、雲呑麺のダシの味も、素朴でひなびた独特の味わい、風味がある。

 今回、滞在したリスボア・ホテルのモーニング・ビュッフェに飲茶の点心、粥が麺があった。香港のホテルのモーニング・ビュッフェにあるものとは対照的に、その味わいは穏やかで優しく、独特の風味、香りを持っていた。そう、今回のマカオ旅行の最初の夜に食べた広東料理店の料理の数々と相通じるものがあった。

 画像はリスボア・ホテルの朝食のビュッフ。最初、飲茶の点心を食べ、ついで、幅広ビーフンの河粉にした。
 麺、河粉の具は雲呑か豚肉の団子の肉丸だけだったが、粥のために用意されていた鯉科の鯪魚のつみれの「鯪魚球」を見つけ、頼んで加えてもらった。

2007/01/24

蟹黄魚翅撈飯(25)

 はたして香港のふかひれ料理事情の歴史はいったいどのようなものだったのだろうか。
 
 先の呉昊著「飲食~香江」、また、同著がしばしば引用している子羽著「香港掌故」、あるいは陳謙著「香港舊事聞見雜録」などにそれらが紹介されている。

 香港で最初に創業した料理店、というよりも料亭は「杏花樓」だったことはすでにふれてきた。
 「杏花樓」が創業した水杭口は、もともとは「妓院」が数多く存在した地域である。「杏花樓」も、もともとは富裕層を顧客とする「妓院」に飲食を供応するための料亭として創業を開始したようだ。燕窩と魚翅の酒席で知られ、順徳人の料理人を抱え、「鳳城風味」を特徴としていた、と記されている。

「鳳城」とは広州の南西部に位置する順徳、太良地方の旧名で、魚米の郷とされ、数多くの名菜があり、数多くの名料理人を生んできたところだ。

 その後、水杭口には数多くの料亭が誕生するが、1903年、香港政府は「妓院」に水杭口での営業を禁止し、上環より西に位置する石塘咀への移転を指示する。

 「妓院」の移転にともない多くの料亭が同地に移転した。当時、石塘咀は未開拓な地域であったことから、広大な敷地を持ち、様々な趣向を凝らした料亭が相次いで誕生することになる。

 さて、当時の料亭では「四局」、つまりは「雀局」(麻雀)、「花局」(芸妓との遊興)、「響局」(芸妓などによる歌舞)、「煙局」(阿片の吸引)の場が設けられ、それらを楽しんで後、宴席がはじまるという次第だった。

 宴席の内容だが、当時は「八大八小」による構成が流行していたという。

「八大」というのは「八大件」、つまり八種の大菜を意味する。その内容は以下の通りだ

 「蟹黄鮑翅」(蟹みそあんかけ仕立てのふかひれの姿煮込み)
 「紅焼網鮑」(干鮑(まだか鮑)の醤油煮込み)
 「片皮乳豬」(子豚の丸焼き)
 「大響螺片」(ほら貝の薄切りの湯びき)
 「高湯魚肚」(魚の浮き袋の上湯仕立て)
 「蒜子瑶柱」(にんにくと干し貝柱の煮込み)
 「清蒸鱖魚」(けつ魚の蒸し物)
 「甜燕窩羹」(甘味仕立ての燕の巣の羹)

である。

 「八小」というのは「四熱葷」、つまりは四種の熱い小菜と四種の冷菜のことである。
 まず「四熱葷」だが

 「竹笙雞子」(衣笠茸と鶏肉の煮込み)
 「香糟鱸魚球」(すずきのぶつぎりの糟汁煮込み)
 「炒田雞扣」(蛙の腿肉の炒め物)
 「滑鮮蝦仁」(小蝦の炒め物)

 そして「四冷葷」は、以下の通りだ

 「瓜皮海参」(瓜と干しなまこの和え物)
 「涼瓜肚蒂」(苦瓜と豚の胃の先端部分である肚尖の和え物)
 「冷拼賢肝」(家鴨の肝の冷製)
 「八珍焼蝋」(八種の焼き物)

 以上の料理以外に宴席前にはつまみ、付き出しとして「二京二生」が用意されていた。
 「二京」とは北京風の甘味のつまみである准山(干した山芋)のシロップ煮込み、南方の棗や胡桃の揚げ物、「二生」として、水菓子、新鮮な果物、たとえば柚子や橙などだったという。

 「八大」の大菜のうち「蟹黄鮑翅」、「紅焼網鮑」、「大響螺片」などは現在の香港の広東料理の高級宴会料理の主菜となっている。また「片皮乳豬」も前菜として登場する。
 その一方で、魚の浮き袋を戻し、上湯の澄まし汁仕立てにした「高湯魚肚」などは、今では事前に注文しない限り、お目にかかれない。

 そして、「大響螺片」のほら貝、「香糟鱸魚球」での鱸(すずき)などは海水魚だが、宴席を締めくくる魚料理「清蒸魚」の素材は淡水魚の「鱖魚」であるのが興味深い。

 「鱖魚」はハタ科の魚で「桂魚」あるいは「桂花魚」の名称を持つ。広大な河川や湖沼で生息する淡水魚であり、中国では最も高級な魚とされ、宴会料理の華となってきた。
 先に紹介してきた『香港・台北いい店うまい店』に紹介されている高級料理店のメニューの中にもみつけられるように、香港では海鮮の流通が盛んになる70年代になるまで、宴会料理では大きな位置を占めていた。それは、海鮮の魚介の入手が難しかった当時の事情を物語るものでもある。

 「八大八小」、「四大四小」を構成する料理の数々、また、宴会料理における料理構成は、現在の香港の広東料理の宴会料理に受け継がれている。現在の香港の広東料理の原点にもあたるものだが、それらはすべて広州の宴会料理の様式にならっていた。つまりは、広州の宴会料理こそ、香港の広東料理、それも宴会料理の源流にあたるものだったのである。

2007/01/23

閑話休題~マカオ・香港旅行(2)

















 以前、香港の観光目的の滞在は1週間に限定されていた。香港で長期に滞在する際、移民局に出向いて滞在日数を申請するか、もしくは、一端、近隣の國に出国し、再入国する必要があった。そんなことから広州やマカオへの日帰りの旅や、後にはタイやヴェトナムに飛んで香港に戻る、といったことを繰り返していた。

 それ以外に、マカオにはdancyuの取材で出かけたことがある。その際、食事情については事前に信頼のおける香港の友人はじめ、綿密に情報を収集し、地元で評判の主要な中国料理、ポルトガル料理、マカオ料理の店を巡り歩き、試食し、吟味し、納得した上で同誌で紹介する店や料理を決めた。

 それまでのマカオ旅行で日本のガイド・ブックを頼りにし、ことごとく失望させられるという苦い体験があったからだ。ちなみに、日本の最新のガイド・ブックを見ると、そうした事情は昔と変わらないようだ。もし、おいしい料理に出会いたいと思うのなら、日本のガイドブックはあてにしないほうがいい。

 ともあれ、dancyuの取材時に見つけ出したのは、翅針が箸の太さほどのふかひれの「天九翅」の料理や「烏骨雞」でダシをとった上湯を看板にする「西南飯店」。
 マカオという土壌に根付いたポルトガル料理を看板にする「坤記餐庁」。塩味をしっかり利かせた同店の料理の数々は、東京の下町に根付いた洋食店のそれをほうふつさせる独特のスタイリッシュな美学が貫かれていた。
 もう1軒、ポルトガル人夫妻がオーナー・シェフを務めポルトガルの郷土料理を看板にするコロアン島の「Cacarola」である。

 今回、「西南飯店」にも出かけられなかった。「坤記餐庁」も、どうやら休業してしまった様子だった。それに「Cacarola」もなくなってしまっていた。
 そして今回のマカオ・香港の旅のコーディネイターを務めてくれた香港の知人のジョイス・ワンが探し出してくれたのが「solmer」だ。

 店のたたずまい、サーヴィス、客層から即座に老舗とわかる風格がある。料理も実に充実していた。
 
 戻した干しダラとジャガイモによるコロッケ風のバカリャウは質実そのもの。サクっとした衣の歯ざわりが物語る揚げ方の巧さ。素朴な味わいながら、香ばしい風味が口中に広がる。

 マカオソールのディープ・フライも、カリっとした衣と緻密な肉質の対照に、思わず頬が緩む。これまた風味が豊かだ。

 そして、きわめつけといえるのが咖哩蟹、カレー・クラブだ。青蟹の一種、雄蟹の肉蟹をカレー味で料理した一品だ。蟹肉も旨い。が、それ以上に、ホット&スパイシーで、なおかつ肉蟹のエキスを含んだスープが旨く、思わずご飯を注文し、即席のカレーライスを存分に味わった。

閑話休題~マカオ・香港旅行(1)




この15日から、マカオ・香港に旅をした。文藝春秋の臨時増刊号の取材旅行である。旅先での毎日を記すつもりでPCを持参したものの、ACアダプターを持参するのを忘れるというドジをしでかし、この1週間、何も書き込めずにいた。

 さて、旅のはじまりはマカオから。宿泊先はホテル・リスボア。街中の風情は以前と変わらず、香港などに比べればのどかで田舎っぽい。

 とはいえ、ウォーターフロントにはラスヴェガス・スタイルのカジノを備えた新しいホテルが立ち並び、本土からの中国人観光客が以前にも増して目立つなど、以前とは異なる活気に溢れていた。

 そして、マカオの食。スケジュールの都合から、一番のお目当てだった西南飯店には行けずじまい。到着した日の夜の食事も、ホテル・リスボアに新しくオープンしたばかりの広東料理店で。

メニューを見ると広東料理の家郷菜があって、そのいくつかを注文。全体「鑊気」、つまりは「火の勢い」に乏しい寝ぼけてトボけたような茫洋な味付け、調理で、なんとも「いなたい」のが、マカオらしい。

 それでも梅菜(雪菜の客家風味の漬物)入りの豚ひき肉の蒸し物に茄子を敷いた「梅菜蒸肉餅茄子」、豚の胃の尖端と鹹酸菜(芥子菜の漬物)を炒めた「肚尖鹹酸菜」など、独特の風味があって、旨かった。

2007/01/13

懐かしの香港、上環の茶樓


 再び呉昊著「飲食~香江」から。
 この写真も、以前、他の書籍でみかけたことがある。
 「香港的舊式茶樓、樓高三樓、甚有特色」との注釈がついている。階によって値段が異なり、利用客も違った、という事情があってのことだった。
 中国人居住区で商業の中心地だった上環にこうした茶樓がいくつも誕生した。
 得雲はその代表的なものだが、とうの昔に「結束」、つまりは、営業を停止してしまった。

蟹黄魚翅撈飯(24)

 それにしても日本でふかひれのしょうゆ煮込みが食べられるようになったのは、いつ頃のことだったのか。また、いったい誰がそれを日本にもたらしたのか。初めてそれを紹介したのはどんな店だったのか。興味はつきない。

 たとえば谷崎潤一郎の「美食倶楽部」に登場するふかひれの料理は「鶏粥魚翅」。
 広東料理にすり身にした鶏肉とふかひれを具にし、たっぷりととろみをつけたスープ仕立ての「鶏蓉魚翅」という料理がある。

 粥仕立てということでは、鶏肉よりも「鷓鴣」を微塵切りにし、燕の巣、山芋ととも煮込み、とろみをつけた「燕窩鷓鴣粥」がある。
 広東地方の郷土料理の名菜のひとつで、香港の「陸羽茶室」の定番メニューのひとつになっている。

 ともあれ「鶏粥魚翅」はふかひれの姿煮ではなく、ほぐしたふかひれを使ったスープ仕立て、というよりも羹仕立ての料理のはずだ。

 それから19年後に世に出た「竹田胤久編著による「隋園食單新釋補填~支那料理基本知識」では、袁枚のふかひれ料理2種の訳の後で、「紅焼魚翅」が「鱶の鰭の醤油煮」として、追記のような形で紹介され、その作り方も紹介されている。

 はたしてそこでの「紅焼魚翅」のふかひれが、「鮑翅」、もしくは「排翅」など、ふかひれの形状の残したものだったのか。
 それともふかひれをほぐした「生翅」もしくは「散翅」だったのか。

 そこであわせて紹介されている「肉絲魚翅」、「鶏汁魚翅」は、間違いなくスープ仕立て、それも羹仕立てのようだ。

 そして、興味深いのは巻末の「現代の料理名と解説」である。
 まずは 「貴重料理」として(鹿鳴春飯店菜譜)として、燕の巣、ふかひれの料理が紹介されている。
 次いで、並線で区分けされ、、鶏、牛豚羊肉料理、魚介類料理、卵料理、野菜類料理、點心類料理などが紹介されている。

 後書きなどから察するところ、並線以後の料理は、上海広文書局出版の「食譜大全」をもとにしたものらしい。

 そのうち鶏肉の料理には「風雞」や「酔雞」など、後に上海料理に取り込まれた周辺の料理が随所に見られる。肉類の料理も同様だ。
 ともあれ、上海料理がどのように形成されていったかを知る手がかりになる。

 そして、「貴重料理」だが、まずは燕の巣の料理の数々が紹介されている。
 ついでふかひれの料理が並んでいるのだが、そこには「紅焼魚翅」は見当たらない。

 ちなみに、紹介されているふかひれの料理とその解説は以下の通りだ。

 一品魚翅/鱶の翅に筍茸ハム油菜など配したもの代表的料理のひとつである
 清湯魚翅/鱶の翅にハム筍茸油菜など配したる汁物
 三鮮魚翅/鱶の翅に雞肉筍茸海参などを加えたるもの
 三絲魚翅/鱶の翅に雞肉筍ハム油菜などを絲のように切ったもの
 桂花魚翅/鱶の翅に玉子の黄味を加え少量のハムを加える
 雞絨魚翅/鱶の翅に叩きたる雞玉子を加え少量のハムを配したもの
 佛手魚翅/鱶の翅に雞肉の擂味を配して佛の手の形につくりたる汁物

 その解説からすると、実際に食べたことがあるもの、料理名からその実態を試みて解説したもの、というのが分かるのがおもしろい。
 が、ここにもふかひれの姿煮のしょう油煮込みはみあたらない。
 ただ、料理内容からするとふかひれの形を残した「鮑翅」もしくは「排翅」を使った料理が含まれているようだ。

2007/01/11

懐かしの香港、水杭口附近の写真

香港の食の歴史をたどった呉昊著「飲食~香江」からのパクリ画像。同著に収録されたこの写真自体、他でみたことがあるから、孫パクリとなるのかも。1846年、香港で最初の料理店が誕生した。その名は「杏花樓」。料理店というよりも料亭と言うにふさわしかったようだ。香港島の上環の水杭口で創業を開始。その水杭口の街の面影を伝えるのがこの写真である。

蟹黄魚翅撈飯(23)

 先の「中国食文化辞典」(角川書店)に「中国本土の食文化」という項目がある。
 中国本土を東西南北に区分して、それぞれの地域の料理、特色について触れたものだ。

 そこに「東方系の料理」として、華中の東、長江下流の江蘇、浙江、安徽省を中心とした地域がそれにあたり、蘇州、揚州、杭州、無錫、安徽、寧波、上海に特色ある料理が存在し、区分されているとが紹介されている。
 もっとも人口が多いのが大都会の上海。かといって、上海料理がその地域を代表するものではなく、それぞれ特色があると触れられている。

 確かに揚州を中心とした淮揚菜など、塩の集散地として発達し、多くの豪商がいた歴史を背景に、豪華であるだけでなく洗練を極めた宴会料理が数多くある。清代の乾隆帝が南巡で揚州を訪れた際、淮揚の美味に魅せられ、結果、北京の宮廷料理に取り入れられることにもなったというエピソードもある。

 杭州料理も洗練された独特の美味がある。清淡、つまりはさっぱりとした湯類があるかと思えば、老抽、つまり、色は濃いが塩分のすくない中国のたまりしょう油をふんだんに使って鯇魚を煮込んだ「西湖醋魚」、皮付きのバラ肉を煮込んだ「東坡肉」がその代表だ。

 無錫の黒酢と砂糖で味つけしたキャラメル風味の「無錫排骨」も有名である。寧波は、塩味の利いた素朴な家庭料理、それに沿岸部であることから華中では珍しく魚介を使った料理がある。 

 そして、滬菜として知られる上海料理。前述の通り、基本は家庭料理だ。そこに、先にふれた周辺の地方料理が取り入れられ、しかも、特徴ある味、風味を持つ宴会料理が生まれていった。

 「上海料理の特徴は、砂糖としょう油をふんだんに使った、甘く、塩辛いしっかりした味つけが特徴だね」とは「老正興菜館」のオーナーの沈有國氏。
 「それに湯を作るのに火腿をふんだんに使う。金華火腿だ」と。

 上海の周辺には、紹興の紹興酒、鎮江の黒酢、金華の火腿がある。さらに、しょう油に加えて、味噌が豊富だ。

 日本にも伝わって和歌山の名産にもなっている徑山寺味噌の故郷は杭州の徑山寺。その徑山寺味噌のたまりを調味料として使うのもこの地域独特のものだ。

 上海、及び、その周辺はしょう油、味噌も種類が豊富である。上海の家庭料理はそれを巧みに使い分ける。つまり醗酵味の旨味、酒、砂糖の甘味、さらには火を通せば酸味だけでなくコクのある旨味をかもし出す黒酢も使われる。調味料をふんだんに使い、それらを組み合わせ、濃厚な味付けで、しかもコクのある旨さ、風味を追及したのが上海料理だ。

 さらに、金華火腿をふんだんに使って上質のダシをとり、葱の香り、甘味、辛味を移した葱油、あるいは、鶏油を仕上げ油に使い、濃厚な味わいで、独特の風味を持つ甘辛いしょう油煮込み料理が生まれていった。
 
 ことになまこやふかひれなどの乾貨素材の料理方法は独特のものがあり、宴会料理の華となったのである。上海の繁栄を背景に、1920~30年代に隆盛を極める。時代の最先端を歩む、新趣向の料理、だったようだ。

 30年代前後、数多くの上海の料理人が日本に招かれたが、彼らが持ち込んだのは、そうした最新の上海料理だ。それまで日本の中国料理の大勢を占めていたのは広東地方の郷土料理だが、そこに「海派」が登場し旋風を巻き起こす。それが日本における中国料理の宴会料理の流れを変えた、のではないかと私は想像するのだが、どうやら事実だったようだ。
 
 宴会料理といえば「海派」、つまりは上海式のそれが主流を占めるようになり、横浜の中華街の勢力図が大きく変わったこと。それは、戦後、中華人民共和国が誕生の前後まで中国本土と密接なつながりを持ち、上海料理の優位が続いた、とは「赤坂璃宮」の譚彬彦さんから聞いた話だ。そして、上海料理は、やがて、横浜から東京へ、さらには全国へと日本中に広まる。

 ところで「あまから手帖」の上海料理特集だが、なぜに、本場の上海ではなく、香港に行ったのか。
 それは香港取材の話が持ちあがり、これまでにない香港を紹介する、というテーマから始まった。そこに、私が加わり、香港には、上海にはなくなってしまった上海料理の黄金期の伝統を受け継ぐ店がいくつもあると提案したことで、GO!となったものである。

 いや、香港だけでなく、実は、東京にも1920~30年代に栄華を極めた上海料理の伝統を受け継ぐ店が、90年代になるまで数多く存在していた。 今となっては、赤坂の「樓外樓飯店」など、その数は限られる。

 ともあれ、日本で上海料理は大きな位置を占めてきた。なかでも、上海系のふかひれのしょうゆ煮込みは、日本のふかひれ料理に大きな影響を及ぼしてきたのだ。というのは私の想像であり、持論なのだが、どうやらそれは事実だったようである。

2007/01/08

蟹黄魚翅撈飯(22)

 「老正興菜館」のオーナーである沈有國氏が語るには「上海料理といっても、昔からあって、正真正銘の伝統的な上海料理といえるのは、20種ぐらいのもんだよ。それもほとんどが家庭料理なんだね。

 そもそも上海の歴史を見ればよくわかることなんだが、上海は開港してから発展してきた。今、上海料理とされているもの、ほとんどの料理は、1930年代に上海周辺の料理をまとめて上海料理と語るようになったものだね。だからその歴史は100年にも満たない。

 おまけに戦争に巻き込まれ、47年に中華人民共和国が誕生して、その歴史も、伝統も、寸断されてしまったんだから」というのである。

 上海が貿易港として発展し、海運、金融の中心地となり、また、紡績などの軽工業を中心に繁栄を極めたのは20世紀に入ってからのことだ。

 ことに1920~30年代はまさにピークを極めた時代だった。そうした都市の繁栄を背景に、食文化も発展を遂げてきた、というのはすでに知られていることだ。

 ついでながら娯楽、ことに映画産業も飛躍を遂げて、東洋のハリウッドとまで語られるほどにもなる。 そして、食だが、先の沈さんの言葉通り、上海には、伝統的な上海料理は、家庭料理以外にはなかった、というのは事実のようである。

 たとえば、上海料理の代表的な料理とされる「東坡肉」は、前述の通り、本来は杭州の名菜とされるものだ。もっと身近な例でいえば、スープ入りの饅頭の「小籠包」も、厳密には上海郊外の南翔の名物である。
 
 上海が都市としての発展、繁栄するにあたって、その牽引力となったのは資本家だが、それを支えたのは地方から流入してきた労働者である。そして、彼ら、及び、都市で生活する一般庶民の食を担ってきたのは、手軽な軽便な小吃類、饅頭や麺類、簡素な惣菜の類だった。
 
 といった食事情は、都市社会が形成される過程における食事情は、どこでも共通しているものだ。
 江戸における蕎麦、深川丼をはじめとす丼飯、寿司、そして、北京における饅頭や餅の類や特有の小吃類を見れば明らかだ。
 
 上海の小吃の中心となったのも饅頭類、それに粗麺を主体とする麺類だったようである。

2007/01/07

隋園食單新釋補填~支那料理基本知識のちらし


 下に紹介した「隋園食單新釋補填~支那料理基本知識」についていたチラシである。「国策線上に登場新刊教程」という見出しがついている。

 「支那事変」の勃発という緊迫した社会状況を背景に、この書を刊行した目的、要点は、国民の体位の低下、体格の劣化を招く動物性蛋白質や油脂の欠乏に対処するために、日常の食事やおやつにも油脂を用いる「支那料理」の様式を取り入れ、それを補給する。
 また、大陸生活の場合を想到して平素から相当の食慣習をつけておく用意のため。なんでも有り合わせのものを活用し、無駄にしない「支那料理」から時局柄学ぶべきものが多い、とある。

 さらに、初心者、家庭人から女学校割烹科の教員、「日支西」の調理師、「支那料理愛好家」は常識を得、大陸生活に進出する人々は。その食習慣と支那語を知る等、利用範囲の拡大化は論をまたず、とある。
 時代を映し出したチラシである。  

蟹黄魚翅撈飯(21)

 小菅桂子さんの「にっぽんらーめん物語」の「にっぽん中国料理史」によれば、日清、日露の戦争が日本で中国料理が広まる要因になったという。

 たとえば中国料理に不可欠な豚肉の生産が高まることになったのだが、それというのも日清、日露戦争において軍隊の食料供給のために牛肉の需要が高まり、値段の高騰を招いたことが、豚の飼育に拍車をかけ、市場に出回るようになったこと。

 前後して、豚肉同様に中国料理の必需品である油、ことに大豆油の生産が増加し、菜種油をしのぐようになったこと。あわせてごま油の生産の増加などもあったという。 また、日清、日露の戦争後、中国との交流が盛んとなり、それが中国料理への関心を高め、やがては家庭料理にも取り入れられ始める。

 中国料理への研究熱が高まり、料理研究家が相次いで中国にわたり、その実態にふれ、新旧の中国料理を紹介するようにもなった。さらに、谷崎潤一郎はじめ、多くの文化人が中国を訪れ、中国の文化とその現状を紹介するようになった。それら文化人の関心を集めたのが上海である。

 上海は長江河口に位置する漁村でしかなかった。それが、アヘン戦争後の南京条約により、香港などとともに開港。1848年にはイギリス、フランスの租界地が設置される。以後19世紀後期から20世紀初頭にかけて急速に発展を遂げ、ことに1920年代から30年代にかけて上海は極東では最大の国際都市として繁栄を極めて、時代の最先端を歩む都市となっていた。

 「海派」、つまりは上海風と語られたように、中国本土でも上海で生まれた文化は最新の流行として全土中に浸透していった。それは、日本にももたらされることになる。た。言うまでもなく食、中国料理についてもだ。

 明治以後、主に横浜を基点に日本に広く浸透して行った日本の中国料理の大多数を占めていたのは、広東系のそれである。そこに「海派」、つまりは上海系のそれが加わることになった。明治の末期以後、大正時代になって一気にその数を増やすことになった中国料理店で、本場風を掲げる店は中国本土から料理人を迎え入れた。中でも重視されたのは上海から招かれた料理人、だったという。
 
 谷崎潤一郎が「美食倶楽部」で「浙江料理」に執着したもの、そうした時代の風潮とは無関係ではあるまい。もっとも「上海」ではなく「浙江」としたのが興味深い。

 それは谷崎が「ほんとうの支那料理」を求めていたからであり、「上海」ではなく「浙江」にこそ、その源流のひとつであるという認識に由来するものなのに違いない。
 
 2000年の秋、「あまから手帖」で香港における上海料理の取材に赴いた。というより、半ば強引に参加させて貰ったものだが。その際、「老正興菜館」のオーナーである沈有國氏から面白い話を聞いた。

2007/01/06

隋園食單新釋補填~支那料理基本知識


 竹田胤久編著による「隋園食單新釋補填~支那料理基本知識」(陶樂荘)。昭和十三年八月十三日印刷、十八日発行と奥付にある。
 袁枚の「隋園食単」の訳本であると同時に、注釈に中国料理の知識や料理を紹介。
 ふかひれの項目のところに「紅焼魚翅」の紹介がある。
 巻末ではどうやら上海の鹿鳴春のものと思われる「菜単」から数々の料理を紹介し、解説を加えてあるのが面白い。
 当時の料理店事情がわかる貴重な書だ。
 不勉強にも竹田胤久をしらないが、あとがきによれば、河北省出身の留学生を預かったことをきっかけに「支那料理」に興味を持ったという。さらには四川料理に関心を持ち、他に浙江、揚州、広東の中国人料理人とともに日本に招聘すべく準備していたものの、支那事変の勃発とともに、実現に至らなかった、とある。
 それにしても、当時、四川料理に関心を持っていた、というのが興味深い。

蟹黄魚翅撈飯(20)

 谷崎潤一郎が『美食倶楽部』を発表したのは大正八年(1919年)のことだった。
 先の小菅さんの『日本ラーメン物語』からすれば、中国料理への関心が高まり、中国料理店が登場するだけでなく、家庭料理として取り入れられ始めた頃、ということになる。
 
 その時点で、谷崎はすでに中国料理を熟知し、体験し、知識を持ち合わせていた。それは同著にも明らかだ。

 同著において主人公であるG伯爵は、未だ真の支那料理を食べたことがなく、横浜や東京にある怪しげな料理は経験しているが、それらは大概貧弱な材料を使って半分は日本化された方法の下に調理されたもの、といった嘆きが語られる。それは谷崎の嘆きでもあって、すでに東京や横浜の中国料理のほとんどを食べつくし、また、真の中国料理を食べたいという願望の現われでもあったのだろう。 

 そして、たまたま見つけ出したのが支那人ばかりが集まる「浙江会館」だった、という設定が鋭くて深い。

 そこで、谷崎の年譜を調べると『美食倶楽部』を発表する前年に、朝鮮、満州、中国に旅行したとある。さらに、その後、26年に中国を訪れ、『上海交遊記』、『上海見聞録』を発表。(とは、ウィキペディアの丸写し!)。

 ともあれ『美食倶楽部』には様々な中国料理が登場する。
 その中に「鶏粥魚翅」というのがある。実際の料理は「鶏粥魚翅」ではなく、喉元を過ぎて「鶏粥」と「魚翅」の風味が醸しだされる、というのも絶妙の設定だ。

 それからうかがえるのは、ふかひれはスープ仕立てであり、姿煮ではなかったということだ。
 当時、はたして谷崎はふかひれの姿煮を食べたことがあったのかどうか。
 いや、あったはずだ。1918年の中国への旅行でもそれを体験したのではないか、とにらんでいるのだが、それを明らかにするものはない。

 それよりも、G伯爵がたまたま見つけ出した支那人ばかりが集まる場所を「浙江会館」としたことに興味をそそられる。

 浙江省は上海に隣接し、省都である杭州をはじめ、寧波、紹興、温州などを含む地域だ。さらに、南京、無錫、徐州、常州、蘇州、揚州、鎮江などを擁する江蘇省とともに、それらの地方に独特の郷土料理こそは、いわゆる上海料理の源流となったものだ。

 谷崎が『美食倶楽部』を生み出した背景には「浙江料理」への強い思い入れがあったのに違いない。

 「……伯爵はまた、支那のうちでもことに浙江省附近は、最も割烹の材料に富む地域であることを知っていた。浙江省の名を耳にする度毎に、そこが白楽天や蘇東坡を持って有名な西湖のほとりの風光明媚なる仙境であって、しかも松江の鱸や東坡肉の本場であることを思い出さずにはいられなかった」という一文が、それを如実に物語っている。

 ちなみに、香港の中環に「江蘇浙江会館」がある。
 ウエリントン通りにある「寧波同郷会」の食堂は、一般客も利用することが出来るが、「江蘇浙江会館」の食堂は、同郷人、および、その関係者だけが利用できる会員制のようだ。

 話を戻して、谷崎は『美食倶楽部』において、中国料理の中でも「上海」に着目し、それを描き出したかったのではないだろうか。おそらく間違ってはいないはずだ。

2007/01/05

蟹黄魚翅撈飯(19)

 日本で中国料理のふかひれの料理が、いつ、どのような形で紹介され、それがいったいどんなふかひれ料理だったのか。また、どうやって広まっていったのか、大いに興味を覚えるところだ。

 「それは難しい話だわ。だいたい、日本での中国料理の歴史、変遷を調べようにも、資料は限られているし、その実態はわかりにくいからね。その、断片がわかるだけだから」と、おっしゃったのは、今は亡き小菅桂子さんである。
 食文化研究で知られ「にっぽんラーメン物語」や「にっぽん洋食物語大全」はじめ、数多くの著作がある。小菅さんとは、かつて私がキャスターを務めたNHK-TVの「男の食彩」で、上野毛の「吉華」を紹介した際、ゲストとして迎えたのをきっかけに、何度かお話する機会を得た。2000年度の芸術選奨の審査会で久々にお目にかかり、長話をした時のことである。

 「にっぽんラーメン物語」の第9話「にっぽん中国料理史」は、小菅さんが明治の文明開化を迎えて以後の日本のおける中国料理の登場やその変遷をまとめたものだ。

 文明開化、とは西洋にならえを意味し、西洋文化一辺倒の時代だった。それも、政府高官御用達の高級西洋料理店だけでなく、庶民相手の一品洋食屋の開店が相次いで後、ようやく明治12年になって東京で初めて中国料理店が誕生した、とある。

 築地入舟町に開店した「永和斎がそれである。主は王楊斎。中国人だったわけだ。その後、明治16年に日本橋亀島町で「偕樂園」、翌17年に築地に「聚豊園」が創業。

 そのうち「偕樂園」については、当初会員制として始まってのち、その経営権を譲り受けた笹沼源吾の息子の源五郎と幼稚園、小学校の同級生だった谷崎潤一郎が「幼少時代」で記している、というエピードも紹介されている。
 あの『美食倶楽部』の原点はそんなところあったのでは、などと想像をたくましくされる話である。  

 話を戻して、明治の10年代に相次いで中国料理店が開店したものの、いずれも、数日前からの予約が必要で、値段はべらぼうに高く、庶民には縁遠いものだった。その予約制だったのは、材料の調達が困難だったというのが大きな理由だったのでは、と小菅さんは推測し、中国料理の華である魚翅、燕窩、干鮑、海参の入手がきわめて困難だったとふれている。 

 もっとも、日清、日露戦争を経て、中国本土との交流が盛んとなり、中国料理への関心が高まる。明治の終わりから大正にかけてのことで、家庭料理として紹介され始め、その紹介本がベストセラーを記録。そして、大正末期、東京には中国料理店は千軒に達するまでになっていた、という。

 さらに昭和の初期、相次いで食案内の本が出版されるようになるのだが、昭和4年には『支那料理通』なる本が登場。7年に出版された『二都喰べ歩き』でも中国料理店が多く紹介され、当時の日本の中国料理事情がうかがえる、という。

 残念なのは、店の存在こそ紹介されてはいても、どういった料理が出されていたのか、といった情報がないことだ。そう、メニューでもあれば、その内実が想像されるし、果たしてふかひれ料理がたべられていたのかどうか、ということも。

 谷崎潤一郎の『美食倶楽部』には、実際にはない幻の料理の数々が登場する。谷崎の想像の産物であるが、その料理名や料理の描写から、谷崎が想像をたくましくする発端となった料理が思い浮かぶ。

 そんな『美食倶楽部』における幻のメニューの発端となった料理の探求というのも、私には大いに関心があることで、それについては機会を改めて触れるつもりだ。

陸羽茶室の飲茶のメニュー


とーとつですが陸羽茶室の飲茶のメニュー。ざら半紙に赤字で印刷、というのは昔から。これは2003年10月11日から17までのもの。メニューは週替わりってことになってますが、確か新年と春節の時は、期間延長だったはず。これはテーブルの上に置いてあるが、昔はこれ以外にこれよりも版が大きい正方形のものも用意されていた。
 週替わりとはいっても、半分以上は、常に変わらない定番ものばかりだ。が、蝦餃にしろ、叉焼包にしろ、みかけは(古)ボケてても、素材吟味で、味わいも風味豊かである。
 煎粉菓連湯、など、揚げた粉菓をスープに浸して食べる、なんて点心があるのは陸羽だけだろう。
 鶏球大包も、陸羽のものはいたって上品で洗練されてる。

 上環の得雲、高陞、北角の十大、油麻地の豪華などなど、とおの昔になくなってしまった茶樓、茶室の鶏球大包は、赤ちゃんの頭ぐらいの大きさで、骨付きの鶏肉だけではなく、鹹蛋まで入っていた。肉体労働に従事するものにとって、格好の朝食だった、という話に納得したものである

2007/01/03

蟹黄魚翅撈飯(18)

 日本では「ふかひれの姿煮込み」といえば、たいていの場合「しょう油煮込み」を意味する。
 「ふかひれの姿煮のしょう油あんかけ」、もしくは「ふかひれの姿煮のしょう油味あんかけ」としている店もある。

 むろん、それ以外のものもある。東京の北京料理店の中には「奶湯」と呼ばれる白濁したスープを張った「砂鍋魚翅」を出している店がある。福臨門だけでなく澄まし仕立ての「清湯魚翅」を出している店もある。

 中国料理についてあれこれ疑問が思い浮かぶたび、ひもとくことが多いのが中山時子監修による「中国食文化事典」(角川書店)だ。昭和63年(1988年)に発刊されたもので、その内容は充実し、学ぶことも多い。なによりも便利この上ない辞典である。

 同書での「魚翅」の項目によれば、中国でふかひれを食べるようになった歴史は新しく「明代中期以後、料理法はわからないが、珍味として食されていたようである」とし、「清代入ってから普及し、道光年間(1821~1850)閩粤(現在の福建、広東省)から宮中に貢物として献上されてからおおいにもてはやされるようになったという」とある。

 ふかひれ料理の歴史が語られる時、引用されることが多いのが、清代初期、かの袁枚が『隋園食単』で記した2種のふかひれの料理だ。
 今手元にあるのは青木正児訳注による『隋園食単』(岩波文庫、80年)だが、それによれば「その一は好いハムと好い鶏との汁を用い、生の筍と氷砂糖一匁ばかりを加え、とろとろになるまで煮る」、
 「いま一つは鶏の汁ばかりを用い、細かく千切りした大根と細かく坼(さ)き砕いた魚翅と一緒に入れて、その中で混ぜ合せ、碗の表面に漂い浮かんで、どれが大根か、どれが魚翅か、食べる人には見分けがつかぬようにする」とある。
 さらに「ハムを用いる方は汁が少ないがよろしく、大根を用いる方は汁が多いがよろしく、すべてとろりと溶けて、柔らかく滑らかなのが佳い」、と。

 料理法が簡単に記されているだけで調味料の類の記述はないから、はたしてどのような味なのか厳密にはわからない。
 それでも「その一」の、ハム(火腿)と鶏のダシで煮込む、また「ハムを用いる方は汁が少ないがよろし」ということからすると、現在の姿煮に近いいものかもしれない。しょう油などの調味料を使用しないとなると「清湯魚翅」の原型と言うことになるが、おそらく、とろみがついていたのに違いない。そして、後者はふかひれスープの原型、ということになるだろうか。

 先の「中国食文化事典」の「魚翅」の項目の最後に中国各地のふかひれ料理の主要な名菜と、それがどの地方の料理なのかが紹介されている。

白扒排翅…鱶ひれのスープ蒸しとろみ煮。山東料理
扒海羊…鱶ひれと羊の内臓の五目煮。北京料理
濃燉鶏鮑翅…鱶ひれとひな鳥の姿蒸し煮。広東料理
蟹黄魚翅…鱶ひれと蟹の卵入りとろみ煮。広東料理
黄燜魚翅…鱶ひれの黄金煮。北京料理
白扒魚翅…鱶ひれの塩味煮込み。山東料理
高湯魚翅…鱶ひれのスープ。福建料理
砂鍋魚翅…鱶ひれの土鍋煮。北京料理
奶湯魚翅 鱶ひれの濁りスープ。山東料理
紅焼大明翅…鱶ひれの丸煮。広東料理
白汁老黄扒翅…鱶ひれの丸煮。上海料理
龍爪魚翅…鱶ひれ蒸しのわらび炒め敷き。広東料理
紅焼大群翅…大型の鱶ひれの丸煮込み。醤油あんかけ。広東料理
蟹黄生翅…鱶の丸びれの蟹の卵いりくずびき。広東料理
碗仔紅焼鮑翅…鰭の丸びれの醤油煮込み、めいめい盛り。広東料理
乾焼魚翅…鱶の丸びれのふくめ煮。四川料理
海紅魚翅…蟹の卵と紅油入り鱶のひれ。北京料理

(以上、無断引用のため削除の憂き目にあうかも!)

 紹介されている料理を見て気づくのは、広東料理、それに、北京料理とその源流のひとつである山東料理にふかひれの名菜が多いことだ。 もっとも、広東料理の名菜として紹介されているものの実質的な内容が似通ったものもある。紹介されている料理で、実際に私が食べたことがあるのは半分しかない。

 他に、先にも紹介してきた杭州料理の名菜で、後に上海料理にも組み込まれるようになったふかひれと火腿(中国ハム)を煮込んだ「火瞳魚翅」がある。そればかりか、上海料理にも、しょう油味で、香油で仕上げた独特の「紅焼魚翅」がある。

 四川にも「紅焼魚翅」の四川式のものがある。銀座にある「趙楊」で食べたことがあったのを思い出した。また、四川には鶏肉に豚骨や豚の脂をとろ火で煮込んで作る「白湯」を使ったふかひれ料理があるそうだが、私は食べたことがない。

 広東料理に組み込まれるが、潮州のふかひれ料理にも「紅焼」、「清湯」など、ふかひれの料理はいくつもあって、中には潮州名菜とされるもののある。
 土鍋煮込みの「魚翅煲」なども潮州独特のふかひれ料理だ。もともとは潮州系の中国人が多いタイで生まれ、それが潮州に逆輸入され、香港に紹介されていったのだ、という話を聞いたことがある。

 そして、忘れてはならないのが、広東料理、それも第二次世界大戦後、さらには、70年代に入って香港でもてはやされるようになった「清湯」系のふかひれ料理である

POST GUIDE TO HONG KONG RESTAURANT


香港の英字紙「South China Mornig Post」が84年に出版したレストランガイド。香港に通い始めた当時、先に紹介した「香港・台北いい店うまい店」以外に食のガイドブックはほとんどなかった。これ以前に「Eating out in Hong Kong by Marry Jackson and Harry Rolnick」(An Asia Magazine Publishing,79年)というのがあったが、欧米人が書いた欧米人向けのものだった。メニューの抜粋などもあって、今となっては貴重な資料でもある。
 次いで、84年に発刊されたこのガイドは、欧米人向けとはいえ、執筆者は中国系の香港人らしく、店や料理の紹介が充実していた。
 但し、メニューは全て英語によるものなので、解読に苦労した。
 「陸羽茶室」などの老舗に加え、「新同樂」や「福臨門」が紹介されている。Cantonese,Pekinese/Northern,Shanghainese,Schichuanといった料理店の区分がとても興味深かった。しかも、店の創業年も記されていたことから、香港の料理店の変遷、その歴史に俄然興味を覚えたものである。
 この後、タトラー誌によるBest of Hong Kongが登場する。
 私は中国語によるガイドが欲しく、その登場を待ったのだが、それは90年代に入るまでかなえられなかった。「飲食世界」、「飲食天地」という食の専門誌と、中国語の新聞の食のコラムやガイドから情報を得たものである。

蟹黄魚翅撈飯(17)

 「白灼中蝦」の「えび」、「豉汁炒帶子」の「たいらぎの貝柱」などの素材の良さ、調理の素晴らしさ。さらには「脆皮鶏」の旨さや鶏肉の味わい。そして、初めての福臨門での一番の驚きは「紅焼生翅」、ふかひれの醤油煮込みとの出会いだった。

 まずふかひれの形状そのものに驚いた。
 ふかひれといえば姿煮である。それまで私が知っていたのは、ふかひれの形をそのまま残し、調理した姿煮だ。しかし、福臨門の「紅焼生翅」は、ふかひれの姿を残してはいなかった。ふかひれの一本一本の繊維がばらばらの状態にほぐされていた。後に、ふかひれの繊維のことを翅針/翅絲と称すると知る。

 ふかひれの一本一本の翅針は、太く、長かった。太くて長い翅針が皿の中で波打っていたのである。
それらを箸先ででレンゲに集め、掬い取り、口に運んだ。
 唇や舌に触れる触感はつるんとしていて滑らかだ。噛み締めれば、ぷちんと弾ける噛み応えがある。それでいて、歯触りは、優しく、軟らかい。確かにふかひれの翅針を味わっているのだ、という実感を覚えた。

 それまで日本で食べてきたふかひれの姿煮とは、まったく異なるものだった。
 扇状のふかひれを箸先でさばき、細いフカヒレの翅針のかたまりを口に運ぶ。唇や舌触りは翅針が細く、たばねたような状態だから、ざらっとしている。それをざくっと噛み締める。とろみのついたダシがほとばしる。味が濃い。そんな味の濃さもふかひれの姿煮の特徴だった。
 福臨門の「紅焼生翅」は、そんな日本のしょうゆ煮込みのふかひれの姿煮とはまったく異なるものだった。

 ふかひれとともに味わうとろみのついたしょうゆ味のスープが旨い。とろみ、とはいっても、うっすらとしたものだ。ダシの味、旨味が、はっきりとわかる。醤油の味、濃いとろみのついた日本のふかひれの姿煮のしょうゆ煮込み。味付け、とろみ付けまで、日本のそれとはまったく違った。しかも、その旨さ、風味はいきなりガツンとくるのではなく、じわじわと押し寄せ、皿半ばほどになって旨味、風味がピークに達する。
 京都や大阪、関西の割烹料理の椀物にも通じる味わい、風味の豊かさに驚いた。洗練された気品のある、しかも毅然とした、味、風味があった。

2007/01/02

甘健成著「鏞樓甘饌録」


 これが甘健成氏の「鏞樓甘饌録」。
 四季折々の行事、それに即した料理、旬の素材やそれを使った料理の数々などのエピソード、外国への食旅行記なども掲載されている。
 「鏞記」といえばどのガイドブックを見ても「焼鵞」と「皮蛋」の話が中心だが、健成氏は伝統的な郷土料理、それも宴会料理から惣菜の類までを掘り起こし、再現し、さらにはその現代化を実践するなど、実に意欲的な人物である。

 先の「団年飯」のエピソードだが「春節」を前にした「除夜」の前後、一年の締めくくりとして従業員一同にねぎらいの宴がもたれるという。

宴席のメニューは以下の通りだ。

「一團和氣~紅焼元蹄」
「嘻哈大笑~乾煎蝦碌」
「發財好市~髪菜蠔豉」
「紅皮赤壮~脆皮焼肉」
「満地金銭~蠔油北菇」
「包羅萬有~紅扒鮑片」
「和氣生財~生魚菜湯」
「雄啼顯貴~蜆介肥雞」
「年年有餘~薑葱鯉魚」

 縁起を担いだ料理名、そして、その内容が紹介されている。いずれも広東地方の郷土料理で、しかも、伝統を継承する懐古的な内容なのが興味深い。

閑話休題~年越しと正月~

 暮れの大晦日に蕎麦を食べ、正月を迎えて雑煮とおせちを食べた。
 昨年の二月に母親が亡くなり、喪中ということもあって新年のご挨拶は遠慮したが、やはり年越しの蕎麦は欠かせず、元旦には雑煮を食べた。おせちはいつもより数を少なくした。

 私が年越しの蕎麦を食べるようになったは東京にきてから、それもここ15年ほどのことだ。80年から90年代半ばまでレコード大賞の審査員を務めていたから、大晦日はそれに借り出され蕎麦を食べる機会はなかった。子供の頃は神戸で、それまた、蕎麦には日頃から縁がなかった。

 その後、近所の知人宅の年越しの儀式に参加する機会を得て、それがずっと続いている。新年を迎える0時前に蕎麦を食べ始め、年を越えて食べ終わり、新年の挨拶をする。しかも、蕎麦を食べている間、無言のままで通し、誰とも会話を交わさない、というのが知人宅の年越し蕎麦の流儀である。

 雑煮は、元旦は澄まし仕立て。昆布と鰹節でとったダシに、具にする鶏肉をさっと酒で煮た後の煮汁も加える。鶏肉以外には、京人参、大根と小松菜かほうれん草。
 2日目は白味噌したてである。昆布と鰹節でとったダシ、それも鰹節の味を濃い目にしたダシだ。
 白味噌は堀河屋野村のもの。具は京人参、大根、里芋、三つ葉。

 餅は丸餅で、元旦の澄まし仕立ての時には別鍋で煮た煮餅。二日目の白味噌仕立ての時は焼餅。
 餅は埼玉の東松山で農業を営む加藤紀行さんが特別にこさえてくれたもの。
 加藤さんちはのし餅だそうだが、わざわざ丸餅にしてくれたもの。
 市販の機械打ちの餅とは違って杵打ちだけに、ぎしぎしと噛み応えのある素朴で実直な味わいのある餅である。

 中国のお正月は、よく知られているように「春節」がそれにあたる。農歴、日本でいう旧暦の1月1日で、今年は2月18日がその日にあたる。中国の年越しの儀式は、地方によって、さらには、家庭ごとにことなるようだが、一般に、粉食が中心の北方では「餃子」をふんだんに作って家族が一緒にそれを食べる。米食が中心の長江沿岸の中部地域や南方などでは「年糕」や「糯米糕」を作って食べる。前者は粳米、後者は糯米を粉にし、蒸して作る中国式の餅である。

 香港では、豪華なご馳走を用意して一年を締めくくる、という話を香港の知人、友人から聞かされてきた。「団年飯」がそれである。

 「除夜」、まさに大晦日に家族、親族が集まってごちそうを並べ、宴席を持つ。お金持ちの一家などでは「一品煲」を食べると聞いた。干鮑(干し鮑)、海参(なまこ)、花膠(魚の浮き袋)などの乾燥海鮮素材を煮合わせ、土鍋で供する豪華な料理である。
 一品煲については、各地にいろいろあって、しかも、いわくいわれもある。いずれ触れるつもりだ。

 広東系の人々では「紅焼元蹄」を主菜にすることが多いようだ。豚の皮付きの腿肉の固まりを丸ごと醤油で煮込んだ料理である。現在は元凱悦軒の料理長で私家房の「周家」を営む周中もそうだという。

 鵞鳥のローストの「焼鵞」で知られる「鏞記」の経営者のひとりである甘健成が、新聞に連載していた記事をまとめて出版した「鏞樓甘饌録」(経済日報新聞)にも、そんなエピソードが出てくる。

蟹黄魚翅撈飯(16)

 初めての福臨門で出会った料理は素晴らしかった。
 いや、正直に明かせば、その素晴らしさ、良さを充分に理解するには、それからしばし時間を要することになる。

 それよりもまず、驚きが先に立った。そのことに戸惑いも覚えた。それでいて、う~んとうなるものがあった。 私の知らなかった世界がそこにあった。

 その日、福臨門で食べた料理については先に触れてきたとおりだ。
 なんといっても、吟味された素材の質の良さと調理の素晴らしさに驚いた。眼を見張った。

 たとえば「白灼中蝦」。その料理と初めて出会ったのは「珍寳」でのことだが、失望したのは前述の通りだ。素材の蝦は悪く、調理も乱暴で、冷めきった状態のものだった。磯臭い匂いすらしたほどだ。

 次いで、改めて挑戦した「小杬公」で、「白灼中蝦」の良さを知った。素材の蝦は新鮮で、噛み締めるとプリっとした弾力がある。そして、甘い。老抽(色は濃いが、塩分の少ない中国醤油のひとつである)とダシ、新鮮な赤唐辛子の細切りを浮かばせたタレにほんの少しだけ身を浸すと、味が引き締まる。誰もが「白灼中蝦」に夢中になるのも納得した。

 福臨門の「白灼中蝦」は、素材も調理も「小杬公」のそれをしのいでいた。茹でた蝦が熱々のまま登場する。殻を剥こうにも、その熱さのため、手にした蝦をあわれて皿に戻すことにもなる。
 そして殻を剥いて食べた蝦の新鮮、茹で加減、さらにはタレの旨さに驚いた。

 タイラギの貝柱を豆豉ミソで炒めた「豉汁炒帶子」の素材である「帶子」、その調理も素晴らしかった。 それまで豆豉ミソで炒めた料理は「小杬公」で、「帶子」ではなく「まて貝」で食べたことがある。後に「小杬公」で同じ「豉汁炒帶子」を食べたが、やはり、福臨門のそれとは違った。 

 もちろん「小杬公菜館」の魚介の素材は新鮮で、充分に吟味されている。海鮮料理を看板にする料理店の中では、言うまでもなくそれまで、また、それ以後、私が出向いた料理店の中では、最も優れた店のひとつだった。物によっては福臨門をしのぐものにも出会ったことすらある。おまけに、値段もそれなりの高級店である。

 そうした素材の新鮮さ、吟味はともかく、調理についていえば、「小杬公」と「福臨門」は明らかに違っていた。

 たとえば「白灼蝦」、それに豆豉ミソをを使った「豉汁」、それに唐辛子を加えた「豉椒」、あるいはねぎと生姜の「姜葱」などの「焗」の調理などを比べればその違いは明らかだった。

 「小杬公」のそれは、豪快でワイルドで力強い。野趣、野生味に溢れ、いきなりガツンとくるような旨さがある。
 一方の「福臨門」は、海鮮素材を生かし、「料理」したものだった。豆豉ミソをを使った「豉汁」など、味が濃く、旨味が直接的に訴えかけてくる調味料を使い、野趣、野生味をいかしながら、そこには「料理」としての洗練や気品があった。

 そして、初めての福臨門で思わず「旨い!」と唸ったのは鶏の丸揚げ、一般には「炸子鶏」として知られている「脆皮鶏」だった。

 ぱり、さくっとした皮の旨さ。噛み締めるとすっと歯が入る柔らかさ、しっとりした肉質。それでいてしなやかな弾力がある。

 「脆皮鶏」は、鶏肉の旨さを教えてくれる見事な料理だった。