もっとも「青木宴」の場合には、あくまで広東地方の郷土料理を主体にしたコース展開を、というのがその趣旨。そこに、贅沢な宴会料理を組み入れて変化をもたせる。ということから、今回は「冬瓜盅」。それもふかひれの質、旨さをグレード・アップした「冬瓜盅生翅」を組み入れた次第。
そんなことから今回のようなコースの場合、続くメニューとして考えられるのは海鮮を素材にした料理。それについては先に触れてきたように、白身の小魚、小ぶりの根魚類を素材に、広東地方の郷土料理の再現をなんとか実現したい。そう考えていたものの仕入れ、調達などの厄介な問題もあって今回はあきらめました。
ということなら、やはり「海老」の料理、活きのいい「才巻き」、「車海老」の類を素材にした料理です。 最もシンプルな調理方法は、茹で海老の「白灼蝦」か、蒸籠(セイロ)で蒸篭で蒸した「蒸籠蝦」。
ですが、生意気な話、日本で、東京で、ゲット、いえいえ、調達可能なその種のえび、新鮮なだけでなく、よほどの上物ではない限り、極上の「白灼蝦」、「蒸籠蝦」には出会えない、というのは私の体験談。
もとより、日本のその種の蝦、香港などで食べるそれとは持ち味、資質が異なるようで、単に茹でたり、蒸したりするの料理には向いてないのではと思えます。素材の持ち味を生かした調理方法、その工夫や技が必要なのでは? というのが私論、あ、私の持論って言うんですね。
「なことないじゃん。寿司ダネの海老、ちゃんとした店にいけば、美味しいだけじゃなくって、極上のがあるじゃん」と、突っ込まれそう。私も、都内某所の寿司屋で極上のえび、食べたことがあります。
ですが、その海老、素材の吟味、茹で方とか、扱いに、その店ならではの「技」がありました。
他の店で食べた海老、ただ、茹でただけ、というのもいささか乱暴ですが、海老の甘味が感じられませんでしたから。そういえば寿司ねたの「海老」で、「おぼろ」を忍ばせる、というのがありますが、あれなんか「海老」を美味しく食べさせる「工夫」と「技」なんじゃないでしょうか。
つまりは、海老の扱い、調理に「技」がある。茹で海老にしても中国料理、ことに広東料理を下敷きにした香港のそれと、寿司屋さんのそれは異なる。長年受け継がれてきた伝統の技、手法があって、日本の海老の持ち味を生かす工夫がなされているってことです。
日本で収穫された日本ならではの持ち味のある「海老」を、中国料理の手法で極上の味、風味を味わうには、やはり、それなりの「工夫」と「技」が必要。それも、茹でたり、蒸したりするより、むしろ殻つきのままで炒める「炒」、強火で炒める「爆」、煎り焼の「煎」、味付けにして蒸し焼きの手法も施した「焗」、あるいは揚げる手法の「炸」が向いているんじゃないかと、私は思います。
海老の殻の旨味のエッセンス。それに、火を通したときに生まれる独得の風味を生かす、ということでは、茹でる場合には紹興酒や玫瑰酒などの中国酒で茹でる。 蒸す場合には、大蒜の微塵切りなどと蒸す。そうすれば、旨さ、風味を増します。9月の「赤坂璃宮」銀座店での「香蒜蒸海蝦(蒜茸蒸中蝦/車海老のガーリック蒸し」などその最たるもの。
それよりも殻の旨さ、香り、風味を味わうには、煎り焼きの「煎」か蒸し焼きの「焗」がうってつけではないでしょうか。たとえば、中国醤油の「生抽」、たまり醤油の「老抽」(これが料理名になると豉油皇と表記されます)で煎り焼きの「煎」にする。それとも、塩、胡椒味で辛味を付けて蒸し焼きにした「焗」にする。
しかし「煎」にしろ「焗」にしろ、その料理方法には「工夫」と「技」が必要なようです。醤油の「生抽」、「老抽」で煎り焼きにするには、火を強くした鍋に注ぎ入れ、味付けするなんてことはない。そうすれば醤油の味ばかり立ち、強火であれば、焼け焦げた味になる。あまりにも醬油味が直接的で、下品、下種な味になる。ということで、そうした方法を避ける。
もっとも、醤油の焼け焦げの香り、というよりも「匂い」は、日本人には堪らない。というより郷愁、懐かしさを誘い、親しみを覚えるものがある。屋台店のヤキソバのソースのあの「匂い」というわけです。いわゆるラーメン中華の店などでの「ニラレバ炒め」や「野菜炒め」の類、それにまさに「焼き飯」というふさわしい「炒飯」に特徴的なもので、それはそれで魅力的ですが、中国料理というには・・・首を傾げます。
たとえば「だし」を張った鍋に、醤油を入れ、そこで煎り焼きに仕上る。だしの味も加味された醤油の味で、殻を煎り焼きにする。それが「工夫」です。醤油の味付けでなく、塩、胡椒の味付けの場合も、同様のプロセスがある。
殻に火が通り、香り、風味が立てば、それで充分。殻はしっかり火が通って、その味、香り、風味を満喫。ところが「海老」の身は、レアな火加減。とろんとした触感があり、なおかつ、甘味が立っている。そんな火加減で止め(とどめ)を刺してある。というのが「技」。調理、鍋の「技」の見せ所です。
殻に火が通った証でもある紅色の照りのある色合い。和らいだ醤油の香りが鼻腔を刺激します。
「もちろんもちろん。あ、別に食べなくってもいいですが。でも、むしゃぶりつきだくなるでしょ? 殻の味、風味、旨いですから。それに殻つきのままむしゃぶりつかないと、醤油を絡ませた殻の味、旨味、風味、味わえませんから!」と、私
「わ、何、これ! 身はレアじゃない!」と斉藤さん。
「そうなんですよ。そこがポイント。技あり、でしょ?」と、料理したわけでもないのに自慢したりする私です。
殻はぱりっとした歯触り、噛み応え。なのに、身はとろん、ぷるんの滑らかさ。生そのままというわけでなく、かといって火をしっかり通したぷりとした張り、弾力のある噛み応えでもなく、その一歩手前、際の感じ。身を噛み締めれば、海老の身の甘さが、しっかり浮かび上がる。
殻つきのままで食べれば、殻に絡んだ醤油の味と、身の甘さが口の中で合体。旨さ、風味が、ますます際立ちます。 醤油味にするか、それとも、塩、胡椒の味付けにするか。どっちを選ぶか、そこが。コースを組み立てる際の思案のしどころ。
味付けだけでなく、殻つき、というのが、大きなポイント。つまりは、歯触り、触感を考慮してこそ、この日のコースの3品目に選んだわけがあったのでした。 「冬瓜盅生翅」の「だし」の旨さ、ふかひれの「生翅」のぷり、ぷちの触感や味、風味に押し黙ってしまうぐらい「うっとり」だったことをすっかり忘れ、殻つきの海老の旨さ、風味に夢中の斉藤さん。
「豉油王煎圍蝦」を3品目に選んで大成功でした。