2007/07/15

dancyu 8月号


dancyuの8月号「創刊200号、1万軒の結論。日本一うまい店、集めました」に寄稿しました。
 名店とは何か、愛する店を通して語るその真髄。食の達人たちが惚れ込む「わが名店」ってことで、寄稿したのは「テーブル高7センチ差の気配り」。福臨門の話です。
 また福臨門の話?と言われそうですが、私は福臨門を愛してやまない。ですが、タイトルには正直言って私自身、驚きました。

 福臨門で居心地の良さを覚える理由のひとつに、テーブルの高さがあります。それについてはdancyuでの拙文をご覧いただきたいところですが、その高さ、それに椅子、その按配は見事と言うよりほかない。と言う以前に、ごくさりげなく当たり前のようにあって、そんなことを微塵も気付かせない。それが福臨門の素晴らしさであり、私が愛着を覚えるところです。
 中国料理にはマナーはなし。好き勝手に食い散らかし、テーブルを汚してこそ、美食を堪能した証、などと語る人は少なくない。たしかに、昔はそうだったかもしれない。が、それでいて暗黙のルールがある。香港、次いで中国本土、さらには台湾で、それなりの食事の席に同席する機会を得て、観察し、知った事実です。
 たとえば、香港。招かれた高級な宴席でも、また、家族や気の置けない友人との日常の食事の場においても、手にする食器はご飯の入った茶碗だけ、というのは一緒に食事をしていれば気付くはず。料理を取り分けた小皿を手にして食べる、ってことは皆無です。小皿はテーブルに置いておくもので、持ち上げることはない。日本の食事の流儀、マナーとは異なります。
 
 そして、宴席の最後に炒飯が登場したとする。その場合、碗によそわれますが、それを手に持って箸でかっこむ、という無様なまねはしない。そんな場合には必ずレンゲが添えられていて、碗はテーブルに碗を置いたまま、レンゲで炒飯をすくって口に運びます。
 ところが、宴席の締めくくりに縁起を担いで登場する魚料理。それも、蒸し魚だったりすると、やっぱりご飯が食べたいという気分になる。蒸し魚そのものの美味もさることながら、煮汁の旨さ堪らない。それをご飯にかけて食べたくなる。で、ご飯を頼みます。ご飯の上に蒸し魚と煮汁を注ぎかける。が、魚の身もあるからレンゲでは食べにくい。ですから箸でかっ込む。そんな場合、当然、お碗を手に持って食べることになる。そう、それはOK。
 それが宴席ではなく、日常の食、家庭などで何皿ものおかずを前に食事をする場合、それを取り分けるのは小皿ではなく、白いご飯を入れた飯茶碗の上、ってのがほとんどです。家族や気の置けない仲間と街中の料理店で食事って場合、料理を小皿に取り分けることもありますが、小皿の料理を白いご飯の上に載せて食べる、なんてことはよるあること。
 子供の頃、ぶっかけ飯は厳禁で、ご飯の上におかずを載っけるだけで小言を食らった体験のある私は、そんな場面を目撃した時には、驚き、当初は抵抗を覚えたものですが、やがて慣れっこになって、私もそれに倣うようになりました。早い話が、私はかぶれです。
 
 ともあれ、福臨門のテーブルの高さ、もちろん、椅子の高さにも関係して、テーブルの上に置かれた食器で手に持つのは飯茶碗だけ。炒飯などはテーブルにおいて、レンゲを使って食べる。料理を取り分けた小皿をテーブルに置いたまま、箸で食べるのには格好の高さです。
 テーブルが低いと、小皿は手に持たないというマナー、ルールに準じれば犬食いになる。そんな無作法をしでかすこともない。

 そういえば、肘をついたまま、あるいは、片手をテーブルに置いたまま、なんてお気楽に食事をする人もいますが、そういう格好をするには福臨門のテーブルはいささか高すぎる。ま、そんな無作法な人は、福臨門ではめったにみかけることはない。
 いや、いたりするんです。あのテーブルの高さにして、肘を付いて、或いは片手をテーブルに置いて食事している日本人観光客。それも、身なりからすればおえらいさん。香港店や九龍店で、その光景、目撃したことがあります。その執着ぶりに恐れ入りました。たぶん、そういう姿勢でないと、食事、というより、飯食った気分がしない、ってことかも。ま、それはそれで、見事な主張でありますが、、、。
 画像はdancyuのHPからのパクリ、8月号の表紙です。