2009/05/13

坂本龍一 グルーヴの躍動~ピアノデリック/PIANODELIC

 そして、坂本龍一の「Ryuichi Sakamoto Playing The Piano 2009」(4月29日、昭和女子大・人見記念講堂)が大きな収穫でした。新作「Out of Noise」は、最初の曲と最後の曲がお気に入り。もしかしてライヴでこそ本領を発揮なのでは?という期待を見事にかなえてくれました。

その2曲、「hibari」、「composition 0919」、めくるめくグラス的ミニマル展開の妙はエッシャーの騙し絵さながら。旋律が螺旋状に果てしなく、止め処なく繰り返されるミディ・ピアノとの連鎖、快感、心地よさに、ナチュラル・ハイを覚えたものです。 当人の「いつ、一体、どうやって終わるのやら」なんてコメントも笑わせます。

 当日のプログラムは気分次第ってことで「composition 0919」についで、いきなりコンサートの終わりを告げるかのような「koko」。それに似た作品ってことで「Aqua」のさわりも。といって、コンサートは終わりませんでした。

 以後、演奏が繰り広げられる中、端整な演奏のメロディそのものが次第にグルーヴ感漂うものとなって行く。時にブルース風、あるいはゴスペル風になり、やがてタメを利かせたリズム・タイミングによるグルーヴ感溢れるビートが高揚感を生み出していく。そんなメロディとリズム、ビートの重層的なグルーヴの妙に自然に身体が揺れました。

 アメリカやイギリスでなら、中南米、アフリカでの公演なら、間違いなく手拍子が巻きおこりそう。ですが、回りを見渡せば背筋すっくという観客が大半を占め、身体を揺れす気配すらうかがえない。なにしろ、咳きには冷ややかな視線。ま、当然な話ですが。そういえば、子供の泣き声?らしきものも聞こえてきたりして。それより、演奏終わりの拍手もお行儀良く簡潔に、なんていうのが暗黙の了解のようで。歓声をあげたり、拍手を長くしようものなら疎まれる気配が濃厚で、支配的。

 そんな次第ですから、手拍子なんてもってのほか。そういや、坂本君、どっかの会場で手拍子が巻き起こったのに「拷問だ。手拍子、やめてほしい!」なんてコメント書き込んでましたっけ。でも、そんなかしこまったり、杓子定規な感じじゃなく、らく~に楽しみたいなんて思いながら、私は身体を揺さぶり、存分に楽しんだのでありました。そして、締めくくりは「戦場のメリー・クリスマス」。

 アンコールでは思わず「イエイ!」と叫びたくなる「チベタンダンス」。それに「ビハインド・ザ・マスク」に「千のナイフ」まで。そう、この日の坂本龍一はあの「テクノデリック」のグルーヴをほうふつさせるソロ・ピアノによる「ピアノデリック/PIANODELIC」さながら。グルーヴの躍動に思わず興奮。

 それだけじゃなくって、そこに坂本龍一という生身の人間、人となり、人間像が垣間見れたこと。それも、生、LIVEならではのもの。といって、それは単なる臨場感ということじゃありません。自身、そして、人、つまりは演奏者と聴衆としての対話。さらには、現代社会、人間社会、人類の、自然界の、この地球の、過去、現在、未来。その演奏が、自身とそれぞれとの関わり、対話、対峙の様を浮き彫りにするものだった、なんていうあたりがライヴならでは、なんてことです。だからこそ、グルーヴの躍動が生まれたのだと。

 「すごいグルーヴ感だったね。特にアンコールからすごかったね。それまでもメロディ自体、グルーヴある感じの演奏になっていって、それから、リズム、ビートのグルーヴ感を増していって重層的なグルーヴが生まれるところが面白かったし、楽しかった!」
 「そうでしょ?ファンキーだったでしょ?去年のYMOあたりからあの感じなんだよね、バンドのノリっていうか、細野さんもユキヒロもそうだし」
 「そうそう、ロンドンとスペインのYMOのライヴ、良かったよ。年くったし、お互い張り合う感じとか、無駄なもんスッパリそぎ落として、ラク~な感じ、そのまんまの演奏ってこと?」
 「そうそう、そうなんだよね」
 「そういや、今日は『テクノデリック』を思い出したりして、私、あのアルバム大好きなもんで!」

 そうです、人見記念講堂での一夜は『テクノデリッック』ならぬ『ピアノデリック』さながら、グルーヴの躍動がなによりも魅力的でした。今、一番、聴きたい音、音楽がそこにありました。
 
 画像は内容充実のツアー・ブックレット。コンサートで演奏したい作品を収録した2枚のCD付きです。これがなかなかの聞き物!