三社祭があると立ち寄るのが弁天山の「美家古寿司」。
「美家古寿司」に通うようになってから一体ってどれぐらいになるのやら。
山本益博、それに当時益博さんの奥さんだった麗子夫妻に案内されたのがそもそのものきっかけでした。
そういえば「三社祭」の宮出しに連れて行ってくれたのも、当時の山本夫妻。宮出しを見終えた後で横浜に直行し「謝甜記」、「鳳城酒家」などをはしごしたのは懐かしい思い出です。
その後、年に何度か折りを見て訪れ、先代の四代目の内田榮一さんの握る寿司を食べながら、昔話を色々。その横に立っていた五代目の内田正さんは美味しいものが好きで、食べ歩きにも熱心。店を改装する間(って、去年じゃなくって、先の際)長期休業した折りに、正さんご夫妻と香港にご一緒したこともあります。
改装前の「美家古寿司」は、創業が慶応2年という老舗ながら下町の寿司屋独得のくだけた雰囲気、風情がありました。玄関入ってすぐのところ、付け板の一番端っこに、先代、10代目の馬生さんがひとり手酌で楽しんでいらしゃる姿を一度ばかりか何度も拝見。
日曜日、休日の昼に訪れると地方からお見えになったと思しき年輩のご婦人、その家族が和やかに寛ぐなんて光景も。
「うちにはね、彼岸の度にお寺(浅草寺)参りして、帰りに寄ってくださる。そんな長年のお客さんが多いんですよ」なんて、先代の榮一さんの話が懐かしい。
その先の改装以後、五代目の正さんが表に立って、四代目は裏に回って上でもっぱら下拵えに。なんていっても、たまに下に降りてきて、懐かしい顔を見つければテーブルに居座って昔話に花が咲く、なんてこともこれまた懐かしい話。
そうそう、先の際の改装で変わったのは店がこざっぱり。同時に、狭くなったこと!
それから、握りのすし飯、ご飯の量が変わりました。ものによってはネタの切り方、厚みをビミョーに変えたりしながら、すし飯の量は、加減、少なめに。
四代目の内田榮一さんの握りはすし飯自体が大ぶりで、時にネタからはみ出していることも。どっしり、ぼってりの按配で、寸胴の体躯が足元に向かってスソ広がりにふくらんでいくような言わばペンギン体型。でも、すし飯の分量、しっかりだったのはいまだ記憶に残ってます。
そういえばJCだかBCだかフード・ライターの案内本に「美家古寿司」が紹介されていて、「昔にくらべすし飯(あ、もしかしてしゃりって書いてあったか)が大きくなった」なんて記述に?
先代、4代目の頃に比べると小ぶりになったのに、なんで?
「あれ、ご覧になりました?昔、って先代の頃の寿司、食べたことないのかな?」
正さんに話をむけても、正さん「ふふふ」と笑うだけ。
「ま、食味評論の方やフード・ライターの方は、お好きにお書きになりますから!」