初めて香港に旅行した当時、『香港・台北いい店うまい店』をはじめとするガイドブック、『旅』など雑誌で紹介された香港の食ガイドをよりどころにしていた。それらから香港は広東料理の本場であること、香港のある料理店のほとんどは広東料理を看板にしていること。また、新鮮な魚介を素材にした海鮮料理が最上位に位置するご馳走だ、ということを知った。
海鮮料理は素材のほとんどが時価であり、高価であるということからも、最上位に位置する理由もわかった。
同時に、香港では北京料理、四川料理、上海料理など、中国各地の地方料理を味わえるとのことだったが、香港に通ううち、上海料理、杭州料理を除いて、各地の地方料理、たとえば北京料理、四川料理などは本場のそれとはいささか異なるものだ、ということを知ることになる。
素材や調味料の調達などの問題もあるが、地元、香港で大多数を占める広東人の嗜好にあわせたものだとわかったからである。
同じことが日本の中国料理についてもあてはまる。
もともと日本の中国料理は、中国人によってもたらされた。が、本場そのままの素材、調味料理の調達には限りもあり、日本で入手可能なものをもとに、創意や工夫がなされてきた。
さらに、当初はその顧客も同胞やその存在を知るものだけ限定されていたが、やがて、日本人にその存在を知られ、しかも、顧客の大半を占めるようになって以来、嗜好が反映されるようになった。日本の土壌、環境を背景にした日本独自の中国料理が形成され、定着してきたのも当然なことだ。
それが本場中国各地に存在する地方料理との隔たりを生み、また、その浸透の大きな妨げとなっているのは事実である。
香港で大多数を占める広東人にとって、北京、四川、上海は、遠い「北方」の国、しかも、異国だという認識すら持っている。その隔たりは、たとえば日本での沖縄と北海道とのそれなどではなく、日本と韓国、いや、それより日本とフランス、イタリアなど、ヨーロッパの国々との隔たりと同様なのだ、と言っても過言ではない。
つまりは、香港の広東人にとって北京料理、四川料理、上海料理は、まさに外国料理に他ならないのである。
ちなみに、香港の食の歴史、その変遷をたどれば明らかだ。
たとえば、香港に本格的な四川料理の店が誕生したのは第二次世界大戦後、48年のことだった。
銅羅湾にあったホテル新寧招待所に開店した「川菜餐廳」がそれである。
初代料理長を務めたのは、その5年後、日本にやってきて四川料理を日本に紹介し、広く一般にその存在を知らしめた陳建民、その人である。
香港における北京料理、上海料理の歴史や変遷については、まだ調査中の段階だが、やはりその数が一挙に増加したのは、戦後、それも、共産党政権による中国人民共和国が成立した47年前後のことだ。
上海の海運、貿易、繊維業の経営者などを筆頭に、中国本土の資産家が共産党政権から逃れ、本拠を香港に移住した。そうした社会状況を背景にしたもので、ことに上海系の料理店は、富裕層を客層にする高級店から、低所得者層を対象に深夜遅くまで営業していた食堂的な店まで、多種にわたり、その数は一挙に増加した。
香港で上海料理、杭州料理が、例外的に本場、中国本土の味をほぼそのまま継承してきた理由はそんなことに由来する。
ついでにいえば、47年の中国人民共和国の成立の前後から50年初頭にかけ、香港に大量に押し寄せた中国からの難民の増加が、香港の庶民の日常の食をまかなってきた固定式の屋台店の増加を促すことにもなったのだ。
話を戻して、香港の海鮮料理、私の最初の海鮮料理体験は、悲惨この上ないものだった。
それは、最初の香港旅行の際、参加したパック・ツアーに組み込まれていた香港仔(アバディーン)の水上レストランでの食事である。
香港のパック・ツアーを利用したことがある人なら、「ああ、あそこ?行った、行った!」と、誰もがうなずく香港の観光名所のひとつだ。
我々一行が連れて行かれたのは「珍寳」だった。
最初に出てきたのは「白灼中蝦」。
次いで「ふかひれのスープ」。それも、「散翅」、まさに「屑ひれ」を使ったとろみがたっぷりついた醤油味のスープだった。
さらに、蝦と野菜の炒め物、などである。そして、締めくくりは「揚州炒飯」。
魚介の素材の質の悪さにげんなりとした。茹で蝦の蝦は、明らかに冷凍ものだった
また、スープ、炒め物はじめ、調理、味付けの乱暴さに驚いた。凡庸としてとらえどころがないばかりか、その不味にうんざりした。これなら、日本の中国料理の方がましではないか、とも思ったものである。
もっとも、冷静に考えれば、それも当然なことだと思う。格安のツアーに組み込まれたものであり、予算も限られていたからです。
ちなみに、我々が参加したのは、三泊四日、3日分の朝食と昼、夕食が一回ずつ、観光とショッピング案内つきで7万2千円。それも成田を夕方に立って、帰国は午前便。行動可能なのは中二日。それも、1日目はわずかばかりの市内観光と、大半は案内の地元の旅行社提携の店に連れ回された。
案内されたいずれの店とも、我らツアーの一行が入ればシャッターを下ろし、店に閉じ込める。
霊感商法さながらの有様だ。
お仕着せの食事とショッピング・ツアーから逃れ、自由を勝ち得たのは!滞在3日目の昼過ぎの1時のことだった。そして、出向いたのが陸羽茶室だったのである。
そんなこともあって、2回目の香港旅行では、香港の広東料理、それも、その真髄とされた海鮮料理にリヴェンジ。いや、なんとかして再挑戦を試みたいと思った。
そして出かけたのが「小杬公菜館」である。同店がまだ河内道にあった頃のことである。
ちなみに、その時のメニューは以下の通りだ。
①白灼生中蝦
②西湖牛肉羹
③蝦子豆腐
④豉椒焗肉蟹
⑤蠔油玉蘭
⑥清蒸生斑
メニューは『旅』での香港の食ガイドを参考にしながら、同行の友人の意見も聞きながら、店の人と相談し、組み立てた。海鮮料理の基本を押さえたコース設定である。
その二日後、初めて叙香園酒樓を訪れた。同店も『旅』の香港の食ガイドで知ったものである。
その時のメニューは以下の通りだ。
①大史五蛇羹
②菜片鴿片
③玉蘭鮮堯柱
④清蒸立魚
⑤揚州炒飯