2006/12/24

蟹黄魚翅撈飯(13)

 海鮮料理のほとんどは時価である。ましてや干貨を素材にした料理の値段の高さは承知済みだった。それを目当てに福臨門に出向いたのだから、それなりの心積もりもあった。
 そんなことから受付嬢の宣告にも「あ、そうなの」と、軽く受け流した。
 それでも受付嬢は私の後に控えた同行の仲間を見据え、いぶかしげな面持ちのままである。彼女の視線を追い、我が一行を振り返ってみて、彼女の面持ちも、成る程と納得した。

 香港では3月に入れば日本の初夏ほどの気温、暑さになる。当時、MTRはまだ開通しておらず、フェリー、タクシー、トラムを利用して移動し、もっぱら徒歩で行動していた。
 そのため、一行のほぼ全員が身軽な装いでいた。ポロシャツにコットンパンツ姿はまだしも、Tシャツにジーンズ姿の者もいた。おしゃれにうるさく、Tシャツにジーンズ姿の上に、スカーフを首に巻きつけている者もいた。もはや汗ばむほどの暑さの香港では、奇異にしか見えないの装いだった。女性陣こそおしゃれな装いだったが、それでも、男共同様、軽装のままである。

 キチンとした身なりのジェントルメンやドレッシーな装いのレイディーには程遠い身なりの者ばかりである。おまけに、一行のほとんどが年齢の割りに若く見られがちで、ことに女性陣がそうだった。それよりもなによりも、懐が豊かそうには見えない。

 旗袍の受付嬢の視線をさえぎるように「あ、なるほど・・でも、ま、ご心配なく。その心積もりはありますから。たぶん、それを上回る勘定をお支払いすることになると思いますが」と、慇懃に答え、「で、席はありますか?」と受付嬢に尋ねた。

 初めて訪れた福臨門のことについてはそんな思い出話が先立つ。その後、しばらくの間、福臨門の話になるとその出来事、エピソードが一緒に香港を訪れた仲間では話題になり、友人、知人にその話を繰り返したものだ。その後、福臨門ではミニマムチャージはなくなった。

 その日、「紅焼生翅」以外に食べたのは、
車えびほどの大きさのえびを茹でた「白灼中蝦」、
タイラギの貝柱を豆?ミソで炒めた「豉汁炒帶子」、
鶏の丸揚げである「脆皮鶏」、
チャイニーズ・ブロッコリーの芥蘭を炒めた「清炒芥蘭」、
紅斑(キジハタ)の蒸し物の「清蒸大紅斑」
などである。

 乾貨素材、それに、新鮮な魚介を素材にした料理による典型的な海鮮料理のコース・メニューだ。
 しかも初めて福臨門を訪れる人には格好のコース・メニューであり、香港の高級海鮮、また、福臨門の入門篇としてはうってつけのものであり、その真髄を味わうことが出来る。

 懐にもう少し余裕があり、なおかつ、食べることに意欲的で、何でもえり好みせずに食べられるという人、旨いもの、美味しいものが食べたいという人には、海参(なまこ)か花膠(魚の浮き袋)の料理。もしくは、その2種に冬菇(干椎茸)、冬筝(冬竹の子)などを加えて煮込んだ「一品保」(干貨、つまりは、乾燥海鮮素材を使ったあわせ土鍋煮込み)を勧めることにしている。

 そこに干鮑(干しあわび)が加われば、もう怖いものなしである。
 ウルトラ級、極上の「海味一品保」となる。
 むろん、値段もウルトラ級、極上であることは言うまでもない。

 そこで、もう一手、鵞鳥の水掻きの「鵞掌」を加えれば、もはやかなうものなし。
 食いしん坊好みの一品になる。金に糸目をつけないなら、干し鮑だけの料理がある。

 初めて福臨門を訪れた際、我等一行の面倒をみてくれたのは、現在の福臨門九龍店のマネージャーで当時はまだキャプテンだった梁保である。彼との出会いも大きく、多くのことを教えられた。

 メニューは「旅」でのガイドをもとに選び、梁保に一品ごとの値段を確認し、総計を出してもらい、電卓片手に人数で割り、予算に合わせてメニューを入れ替えし、決定した。
 そうやって、私が梁保とコース内容と値段の交渉を続ける間、わが一行は空いたお腹をかかえたまま、お預け状態である。
 私は仲間のことなど気にもかけず、ひたすら、我が仲間の全員が納得できる予算内にすませられる金額を念頭において、電卓片手に梁保と交渉し、コースのメニューを組み立てた。

 実は、福臨門に限らず、初めて香港に旅し、ツアーから離れて自由行動の時間を得て、自分たちで出かけた店をきっかけに、どの店を訪れても同じように一つ一つの料理の値段を確かめ、総計を出し。それで納得した上でコースの内容を決定する、といった交渉を行ってきた。

 香港に限らず、外国に旅行した体験から身についたものだ。むろん、接待されるような席でそんな行動をとったことはないが、気の置けない仲間となった人たちとの食事では、勘定の際、食べたもの、その値段のひとつひとつを確認した上で支払う、という場面を何度も目の当たりにし、私もそれに倣ってきただけのことである。

 それに、その確認をしなければ、思わぬ勘定を支払わせられかねないことも何度かあった。まして香港では値段の確認を怠っため、法外な支払いになった、という話を耳にしていたからである。
 そんなことからメニューを選んでコースを組み立てる際、値段の確認、およその総計を事前に確認することを怠らずにきた。交渉の間、空いたお腹を抱え我慢を強いられる旅仲間からは「香港の食卓の電卓王」、「電卓の鬼」とからかわれ、私もそれを自認してきたものである。

 福臨門の店の玄関には「富客常臨」、お金持ちが来る店であり、お金のないものは近寄れずと言に含めた看板が掲げられている。そんな福臨門で料理の一品一品の値段を確認し、電卓片手に総計を確かめて交渉するなど無粋この上ない行為だし、客としてはふさわしくないはずだ。

 もっとも、梁保の話によれば、欧米の観光客のほとんはそうやって一品一品の値段を確認し、納得したうえで、メニューを決めるそうで、極当たり前のことであり、彼も慣れている、との話だった。もっとも「でも、日本人の客には、滅多にいないね」と、笑いながら付け加えたものだ。それより、梁保は、美味しいものを食べたいという熱意を感じ、それに応えたいという気持を持ってくれたという。

 その話を聞いて以来、福臨門では、時たま値段の確認こそすれ、電卓片手に料理を注文するのはやめた。梁保への信頼と、実際に食べて満足を得られない、ということがほとんどなかったからである。不満や疑問を覚えれば、梁保に率直に伝えた。その答えは、その次に訪れた際に返ってきたものである。