2007/01/11

蟹黄魚翅撈飯(23)

 先の「中国食文化辞典」(角川書店)に「中国本土の食文化」という項目がある。
 中国本土を東西南北に区分して、それぞれの地域の料理、特色について触れたものだ。

 そこに「東方系の料理」として、華中の東、長江下流の江蘇、浙江、安徽省を中心とした地域がそれにあたり、蘇州、揚州、杭州、無錫、安徽、寧波、上海に特色ある料理が存在し、区分されているとが紹介されている。
 もっとも人口が多いのが大都会の上海。かといって、上海料理がその地域を代表するものではなく、それぞれ特色があると触れられている。

 確かに揚州を中心とした淮揚菜など、塩の集散地として発達し、多くの豪商がいた歴史を背景に、豪華であるだけでなく洗練を極めた宴会料理が数多くある。清代の乾隆帝が南巡で揚州を訪れた際、淮揚の美味に魅せられ、結果、北京の宮廷料理に取り入れられることにもなったというエピソードもある。

 杭州料理も洗練された独特の美味がある。清淡、つまりはさっぱりとした湯類があるかと思えば、老抽、つまり、色は濃いが塩分のすくない中国のたまりしょう油をふんだんに使って鯇魚を煮込んだ「西湖醋魚」、皮付きのバラ肉を煮込んだ「東坡肉」がその代表だ。

 無錫の黒酢と砂糖で味つけしたキャラメル風味の「無錫排骨」も有名である。寧波は、塩味の利いた素朴な家庭料理、それに沿岸部であることから華中では珍しく魚介を使った料理がある。 

 そして、滬菜として知られる上海料理。前述の通り、基本は家庭料理だ。そこに、先にふれた周辺の地方料理が取り入れられ、しかも、特徴ある味、風味を持つ宴会料理が生まれていった。

 「上海料理の特徴は、砂糖としょう油をふんだんに使った、甘く、塩辛いしっかりした味つけが特徴だね」とは「老正興菜館」のオーナーの沈有國氏。
 「それに湯を作るのに火腿をふんだんに使う。金華火腿だ」と。

 上海の周辺には、紹興の紹興酒、鎮江の黒酢、金華の火腿がある。さらに、しょう油に加えて、味噌が豊富だ。

 日本にも伝わって和歌山の名産にもなっている徑山寺味噌の故郷は杭州の徑山寺。その徑山寺味噌のたまりを調味料として使うのもこの地域独特のものだ。

 上海、及び、その周辺はしょう油、味噌も種類が豊富である。上海の家庭料理はそれを巧みに使い分ける。つまり醗酵味の旨味、酒、砂糖の甘味、さらには火を通せば酸味だけでなくコクのある旨味をかもし出す黒酢も使われる。調味料をふんだんに使い、それらを組み合わせ、濃厚な味付けで、しかもコクのある旨さ、風味を追及したのが上海料理だ。

 さらに、金華火腿をふんだんに使って上質のダシをとり、葱の香り、甘味、辛味を移した葱油、あるいは、鶏油を仕上げ油に使い、濃厚な味わいで、独特の風味を持つ甘辛いしょう油煮込み料理が生まれていった。
 
 ことになまこやふかひれなどの乾貨素材の料理方法は独特のものがあり、宴会料理の華となったのである。上海の繁栄を背景に、1920~30年代に隆盛を極める。時代の最先端を歩む、新趣向の料理、だったようだ。

 30年代前後、数多くの上海の料理人が日本に招かれたが、彼らが持ち込んだのは、そうした最新の上海料理だ。それまで日本の中国料理の大勢を占めていたのは広東地方の郷土料理だが、そこに「海派」が登場し旋風を巻き起こす。それが日本における中国料理の宴会料理の流れを変えた、のではないかと私は想像するのだが、どうやら事実だったようだ。
 
 宴会料理といえば「海派」、つまりは上海式のそれが主流を占めるようになり、横浜の中華街の勢力図が大きく変わったこと。それは、戦後、中華人民共和国が誕生の前後まで中国本土と密接なつながりを持ち、上海料理の優位が続いた、とは「赤坂璃宮」の譚彬彦さんから聞いた話だ。そして、上海料理は、やがて、横浜から東京へ、さらには全国へと日本中に広まる。

 ところで「あまから手帖」の上海料理特集だが、なぜに、本場の上海ではなく、香港に行ったのか。
 それは香港取材の話が持ちあがり、これまでにない香港を紹介する、というテーマから始まった。そこに、私が加わり、香港には、上海にはなくなってしまった上海料理の黄金期の伝統を受け継ぐ店がいくつもあると提案したことで、GO!となったものである。

 いや、香港だけでなく、実は、東京にも1920~30年代に栄華を極めた上海料理の伝統を受け継ぐ店が、90年代になるまで数多く存在していた。 今となっては、赤坂の「樓外樓飯店」など、その数は限られる。

 ともあれ、日本で上海料理は大きな位置を占めてきた。なかでも、上海系のふかひれのしょうゆ煮込みは、日本のふかひれ料理に大きな影響を及ぼしてきたのだ。というのは私の想像であり、持論なのだが、どうやらそれは事実だったようである。