小菅桂子さんの「にっぽんらーめん物語」の「にっぽん中国料理史」によれば、日清、日露の戦争が日本で中国料理が広まる要因になったという。
たとえば中国料理に不可欠な豚肉の生産が高まることになったのだが、それというのも日清、日露戦争において軍隊の食料供給のために牛肉の需要が高まり、値段の高騰を招いたことが、豚の飼育に拍車をかけ、市場に出回るようになったこと。
前後して、豚肉同様に中国料理の必需品である油、ことに大豆油の生産が増加し、菜種油をしのぐようになったこと。あわせてごま油の生産の増加などもあったという。 また、日清、日露の戦争後、中国との交流が盛んとなり、それが中国料理への関心を高め、やがては家庭料理にも取り入れられ始める。
中国料理への研究熱が高まり、料理研究家が相次いで中国にわたり、その実態にふれ、新旧の中国料理を紹介するようにもなった。さらに、谷崎潤一郎はじめ、多くの文化人が中国を訪れ、中国の文化とその現状を紹介するようになった。それら文化人の関心を集めたのが上海である。
上海は長江河口に位置する漁村でしかなかった。それが、アヘン戦争後の南京条約により、香港などとともに開港。1848年にはイギリス、フランスの租界地が設置される。以後19世紀後期から20世紀初頭にかけて急速に発展を遂げ、ことに1920年代から30年代にかけて上海は極東では最大の国際都市として繁栄を極めて、時代の最先端を歩む都市となっていた。
「海派」、つまりは上海風と語られたように、中国本土でも上海で生まれた文化は最新の流行として全土中に浸透していった。それは、日本にももたらされることになる。た。言うまでもなく食、中国料理についてもだ。
明治以後、主に横浜を基点に日本に広く浸透して行った日本の中国料理の大多数を占めていたのは、広東系のそれである。そこに「海派」、つまりは上海系のそれが加わることになった。明治の末期以後、大正時代になって一気にその数を増やすことになった中国料理店で、本場風を掲げる店は中国本土から料理人を迎え入れた。中でも重視されたのは上海から招かれた料理人、だったという。
谷崎潤一郎が「美食倶楽部」で「浙江料理」に執着したもの、そうした時代の風潮とは無関係ではあるまい。もっとも「上海」ではなく「浙江」としたのが興味深い。
それは谷崎が「ほんとうの支那料理」を求めていたからであり、「上海」ではなく「浙江」にこそ、その源流のひとつであるという認識に由来するものなのに違いない。
2000年の秋、「あまから手帖」で香港における上海料理の取材に赴いた。というより、半ば強引に参加させて貰ったものだが。その際、「老正興菜館」のオーナーである沈有國氏から面白い話を聞いた。