2007/02/14

蟹黄魚翅撈飯(30)

 95年11月、広州、桂林の取材旅行に出かけた。今は無くなってしまった学研の「ラ・セーヌ」誌から依頼によるものだった。同じく今は無くなってしまったJASの関空と広州を結ぶ空路が開通したのがきっかけだった。一緒に出かけたのはフォトグラファーの菅洋志さん。長年の知りあい、というよりも家族付き合いのある友人のひとりである。

 菅さんは、アジアの風景、そこに暮らす人々や生活を撮った数々の写真集を出版し、これまでに土門拳賞はじめ数々の受賞歴を持つ。ちなみに、私が最も愛してやまない菅さんの写真集は「博多祇園山笠」(95、海鳥社)だ。

 菅さんには撮影に専念してもらう一方、私は、取材先の選択や決定、実際的な取材収集などの編集業務のすべて、料理撮影時のアシスタント、さらにはモデル!を務め、執筆も担当した。


 取材にあたって現地にはコーディネイター、ガイドが用意されていたが、観光案内は彼らにお任せにするにしても、食の案内に関しては、彼らにすべてを任せ、その情報をそのまま紹介する、というおざなりなものはしたくなかった。すでに何回か広州に旅した経験もあり、香港の知人を通じて様々な情報を得ていたから、ひとひねり工夫を凝らした案内を試み、それを実践したかったからだ。

 初めて広州に旅したのは80年代初めの頃である。広州は、中国南部では最大の都市、とはいえ、当時、市中の道路はまだ十分に整備されていなかった。車やトラックが猛スピードで突っ走り、しかも、信号無視などは当たり前。先行する車両を追い抜くためには対向車線にずかずかと入り込んでいく。あわや!という場面に何回もでくわし、肝を潰したことが何度かあった。

 一番の繁華街である沙面近くの百貨店に入ったが、香港の中国系のデパートでの物資の豊富さなどとは対照的で、品数も少なく、素朴で質実そのもの。カミサンなどは、必死になって品物を吟味する地元の人たちの間に分け入ってまで、買い物はしたくないと、品物を眺めるだけだった。

 おまけに「六二三路」周辺は、ブロックごとに物乞いが立ち並んでいて、観光客の姿を見届けるとつきまとう。物乞いのテリトリーは厳密に管理、区分されているらしく、ブロックごとに顔ぶれが入れ替わる。そんな有様だったから、かみさんは広州への旅はこりごりだともらしていたものだ。

 が、私としては香港では入手が難しかった食関係の書籍などが入手出来たことから、広州に旅することはいとわず、何度か出向いた。かみさんも否応なしに同行したものである。


 そんな時代を経て、出かけた広州はすっかり様変わりしていた。道路は整備され、街の様子も明るくなっていた。食事情も大きく変化していた。ことに目立ったのは香港から食関係の企業が数多く進出し、中国との共同資本による新しい店が相次いで生まれ、香港式の海鮮料理、あるいは、香港式の広東料理が、最新の流行になっていたことだ。

 一方、かねてから存在していた広州の料理店、茶樓なども、経済的な繁栄を背景に、賑わいを見せ、活気づいていた。

 その取材時、なんとか実現したかったのは、香港の広東料理店における宴会料理、さらには広東地方の郷土料理、家庭料理の源流をさぐること。さらには、香港と広州とのそれらの差異や現状を探り、確認したかった。


 そして、郷土料理、家庭料理に関しては、素晴らしい店を見つけ出した。もっとも、それは香港の友人、作詞家として知られる潘源良から教えられたものだ。

 その店については後に改めて詳しくふれるつもりだが、香港で言えば、かつての「叙香園」、その流れを汲む「酔湖」とほぼ同じだ。旬の素材を生かした「湯」、「小菜」の類が実に豊富で、明らかに順徳/太良地方の「鳳城風味」によるものだった。
 
 素材の生かし方が素晴らしく、口あたりがさっぱりした料理もあれば、適度の調味料を生かしたメリハリのあるきりっとした味わいのあるものもある。最も印象に残ったのは旬の素材を使った「例湯」。それに「蓮藕餅」だった。

 それまで食べてきた「蓮藕餅」といえば、ひとかじりすれば、ぱり、さくっとした噛み応えのあるものだった。それがその店の「蓮藕餅」は、口当たりはしんなり。しかもしっとりとしとしていて、味わい深い。後にも先にも、そんな「蓮藕餅」には出会ったことがない。今だ、その印象は強く残っている。


 そして、伝統的な広東料理。目当ては「紅焼魚翅」だった。