「中国名菜譜~南方編」(柴田書店、73年)に紹介されている「大三元」の「紅焼大群翅」では、日本語の料理名は「ふかひれの丸煮込みしょうゆあんかけ」となっている。その最後に「銀針」、つまりは緑豆もやしの炒め物の存在と、その調理方法が紹介されている。「大三元」では「銀針」もラードで炒める、と記されているのが興味深い。
実は、福臨門はじめ、香港の高級海鮮料理店で「紅焼魚翅」を注文すると、必ずその「銀針」が添えられている。広州の「大三元」の「紅焼大群翅」にも明らかなように、伝統的なスタイルであり、香港でもそれにならってきた証といえるものだ。ここ20年来になるだろうか、「銀針」とともに「韮黄」、黄韮の炒めものも添えられるようになった。「火腿」の細切りが添えられていることもある。
それにしても何故に「銀針」が添えられ、また「韮黄」も加わることになったのか。
たとえば赤坂の「樓外樓」の「菜心扒翅」など、青梗菜などが添えられているが、それと同じく、ふかひれ料理に野菜を添える、ということに由来するようだ。
もっとも、葉野菜、茎野菜などではなく、何故に「銀針」なのか。それは「銀針」の太さ、触感、味わいに関係がありそうだ。
これまでふれてきたように、香港のふかひれ料理ではふかひれの一本一本の繊維の太さが問われる。そして香港の「銀針」は、日本のそれに比べれば細い。その太さは極上のふかひれである「裙翅」、あるいは「生翅」の太さに準ずるが、もしくはそれよりも細い。
さらに、それらふかひれの「翅針」が持つ膠質特有のつるんとした滑らかな舌触り、ぷりっとした歯触りとは対照的に、「銀針」にはぱりっとした舌触り、さくっとした噛み応えがある。そんな舌触り、歯触りの対比。さらには、上湯を含んだ「翅針」の味わいと対照的に、「銀針」は、ほとんど無味にちかく、くせのない「清淡」な味わい、風味を持つ。「口を変える」には格好なものだ。
また「韮黄」には、独特のくせ、風味があるのだが、それでいてふかひれの味わいを邪魔しない。それもまた「口を変える」には格好なものなのだ。
日本の「もやし」の多くが、太く、また、水っぽく、独特の土臭さを持っているため香港の高級海鮮料理店で「紅焼魚翅」に添えられている「銀針」を実現するには、それなりの工夫が必要なのだが、残念ながら、福臨門以外、お目にかかることはない。
それよりも、「もやし」を添え物として用意するのではなく、「紅焼魚翅」にあらかじめ入れたまま出す店がある。それでは「もやし」の持ち味、舌触りや歯触りが損なわれてしまう。おそらくは香港での様式を模しただけのことだ。しかも、そうした店に限って本場式に倣ったと自慢し、頑なに添え物として用意しない。あきれるより他ないのだが、高級店とされる店ですらそうしたことがあるのだから、救いようがない。
さて、「銀針」、「韮黄」の炒めものとともに添えられるものに「紅醋」あるいは「浙醋」と呼ばれる「赤酢」がある。香港で入手した本によれば「芥子」を添える、ということもあったようだ。「芥子」はさておき、「紅醋」がふかひれ料理に添えられるのは「紅焼魚翅」、あるいは「蟹黄生翅」など、濃く味付けされたものに限られる。「清湯魚翅」や「羹」の類に用意されることはない。
その用途は、もともとはふかひれを戻す技術が充分ではなく、磯臭さを残し、あるいは、滑らかさに欠けるといった場合、消化の目的もあって、使用されたという。もっとも、そうした問題が解決されていれば不必要ともいえるものであり、むしろ、多量に使用することによって、上質なふかひれ、さらには上湯の味、風味を損ねてしまいかねない。現在では「紅醋」を添える、という形式をそのまま継承しているのがほとんどのようだ。
といえば明らかなように「紅醋」はどぼどぼと注ぎいれるものでない。少々「紅醋」を、たとえばレンゲで掬ったふかひれに少量たらすといったように、先の「銀針」同様、「口を変える」ほどの量にとどめておくのが相応しい。上質の「紅焼魚翅」では必要のないものである。
そういえば、かつて大きな鍋によそわれたふかひれの醤油煮込みや澄まし仕立てに、ブランデーを注ぎかけるという儀式が盛んに行われたことがあった、という話を耳にしたことがある。その役割を担うのは、客を迎えたホストであり、ブランデーの品種を吟味し、自慢げにその儀式を行った、という。が、それは、高級料理店ではなく、中流、及び大衆的な料理店での宴席の話だ。
それらの料理の仕上げが充分なものでなかったことがそもそもの発端であり、いつしか儀式として浸透したのではないか、というものだった。福臨門はじめ、香港の高級海鮮料理店では決してみかけることのない光景である。